足利

足利

降りしきる雨の中、足利学校を訪れた。
歴史的な現象は、絶対的に一つであるのに、日本最古の学校は、知性的欲求と想像を膨らまさせてくれた。
それは、真実であった現象から逸脱したとしても、主観的な世界であり続けるならば許される、そんな時間だった。
コロナ禍では、外部からの人の流れをほとんど止めた為か、その土地土地に宿る日本の姿が純化されている気がした。
そして、少しずつ動き始めた未来に、善とか、悪とかではなく、あるいは、社会的な弱者に対しては本当に厳しいこともあった思うが、
これまでの全てを考え直す時間を与えてくれた気がした。
歴史は、なるべくしてなる。コロナというヴィールスも人間の歴史になるべくしてなる要因を与えたのだと実感した。
世界中の人々が、マスクをしていた姿。それが、少しづつ終わりかけた来ているかもしれないという矢先、ロシアとウクライナの戦争が始まった。
今までの歴史的な経緯に付け加え、コロナの影響があったのではないか、それほどコロナに追い詰められていたのだという思いがした。
ただし、哲学の歴史から紐解けば、なるべくしてなったのだという解釈がなされるのだと、私は確信した。
私にとって、マーラーは、音楽家ではなく、哲学者であり続ける。彼の哲学の中で、すでに未来は予言がされていた。しかし、その後がある、ポストがある。それが今だと私は考えてる。
雨脚を早くする中、縁側から足利学校の庭を眺めた。
今、哲学的にはマーラーの哲学は既に過ぎ去っている、そして、その後は行きつく所はそこしかないという所に来ている。
哲学的には、現象的な継続とその対象化、そして、Complete Zeroの想定、その関係提示の方法によって解釈されうる現象、それを解き明かせばいいだけだと思う。
その哲学において、基本的形式の提示は、単純であるが、他対象と関係性を持った時は複雑さを極める。それが、私の哲学であり、そこから現象の解釈することで、原因を帰結する。だから、今の状況はなるべくしてなっていて、当然であると考えている。
そして、行きつくところは一つしかない、そこまで、運命論的には私は結論付けている。それなら、虚無になるのだろうか。虚無だから不幸となるのだろうか。未来は悲観すべきものなのだろうか。
私は、そう思わない。私は今、本当に幸せだ。けれど、その幸せは死後まで望まない。死後があってもなくても関係ない。何故なら、今幸せだから。
そして、死後に幸せを求めるなら、なんて、今が不幸なのだろうか思う。
私は、今幸せ、だから、死後の幸せは必要ではない。
現象的な継続とその対象化、そして、Complete Zeroの想定した時に回避出来ないとある論理、マーラーは見抜いていたのだと思う。
彼の作品を聞くと、いつも私は、私もそう思う、ただし、その先があると確信する。
人類の危機?明日、核ミサイルが頭の上で爆発しても、私は幸せだ。何故なら、現象的な継続とその対象化、そして、Complete Zeroの想定によって哲学的に結論を持っているから。

足利は、綺麗な街だ。例えその土地が、私が最後に訪れた土地になったとしても、それは変わらない。
そして、超越性は私の哲学にはない、超越と言われている要素は、現象的な継続における転換であると考えているから。
ある意味、それは方法論であり、現象に対する形式論理的でもある。

「知識や学問は本当に役立つのか、歴史から本当に学べる事は出来るのか」、足利で学問を営んだ先人達の叱咤の声が聞こえてきた気がした。

2020年4月30日 東京

足利

降りしきる雨の中、足利学校を訪れた。
歴史的な現象は、絶対的に一つであるのに、日本最古の学校は、知性的欲求と想像を膨らまさせてくれた。
それは、真実であった現象から逸脱したとしても、主観的な世界であり続けるならば許される、そんな時間だった。
コロナ禍では、外部からの人の流れをほとんど止めた為か、その土地土地に宿る日本の姿が純化されている気がした。
そして、少しずつ動き始めた未来に、善とか、悪とかではなく、あるいは、社会的な弱者に対しては本当に厳しいこともあった思うが、
これまでの全てを考え直す時間を与えてくれた気がした。
歴史は、なるべくしてなる。コロナというヴィールスも人間の歴史になるべくしてなる要因を与えたのだと実感した。
世界中の人々が、マスクをしていた姿。それが、少しづつ終わりかけた来ているかもしれないという矢先、ロシアとウクライナの戦争が始まった。
今までの歴史的な経緯に付け加え、コロナの影響があったのではないか、それほどコロナに追い詰められていたのだという思いがした。
ただし、哲学の歴史から紐解けば、なるべくしてなったのだという解釈がなされるのだと、私は確信した。
私にとって、マーラーは、音楽家ではなく、哲学者であり続ける。彼の哲学の中で、すでに未来は予言がされていた。しかし、その後がある、ポストがある。それが今だと私は考えてる。
雨脚を早くする中、縁側から足利学校の庭を眺めた。
今、哲学的にはマーラーの哲学は既に過ぎ去っている、そして、その後は行きつく所はそこしかないという所に来ている。
哲学的には、現象的な継続とその対象化、そして、Complete Zeroの想定、その関係提示の方法によって解釈されうる現象、それを解き明かせばいいだけだと思う。
その哲学において、基本的形式の提示は、単純であるが、他対象と関係性を持った時は複雑さを極める。それが、私の哲学であり、そこから現象の解釈することで、原因を帰結する。だから、今の状況はなるべくしてなっていて、当然であると考えている。
そして、行きつくところは一つしかない、そこまで、運命論的には私は結論付けている。それなら、虚無になるのだろうか。虚無だから不幸となるのだろうか。未来は悲観すべきものなのだろうか。
私は、そう思わない。私は今、本当に幸せだ。けれど、その幸せは死後まで望まない。死後があってもなくても関係ない。何故なら、今幸せだから。
そして、死後に幸せを求めるなら、なんて、今が不幸なのだろうか思う。
私は、今幸せ、だから、死後の幸せは必要ではない。
現象的な継続とその対象化、そして、Complete Zeroの想定した時に回避出来ないとある論理、マーラーは見抜いていたのだと思う。
彼の作品を聞くと、いつも私は、私もそう思う、ただし、その先があると確信する。
人類の危機?明日、核ミサイルが頭の上で爆発しても、私は幸せだ。何故なら、現象的な継続とその対象化、そして、Complete Zeroの想定によって哲学的に結論を持っているから。

足利は、綺麗な街だ。例えその土地が、私が最後に訪れた土地になったとしても、それは変わらない。
そして、超越性は私の哲学にはない、超越と言われている要素は、現象的な継続における転換であると考えているから。
ある意味、それは方法論であり、現象に対する形式論理的でもある。

「知識や学問は本当に役立つのか、歴史から本当に学べる事は出来るのか」、足利で学問を営んだ先人達の叱咤の声が聞こえてきた気がした。
2020年4月30日 東京

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