詩的作品における芸術性

詩的作品における芸術性
The Conference CIVAE 2020
スペイン語論文 
Artisticidad en obras poéticas
日本語オリジナル

詩作は、言語表現の規則に従った単語の組み合わせであるが、その組み合わせにおいて、芸術的な美的性が顕現するという事は、何を意味するのであろうか。
これは、詩作における、芸術性に関する論述であり、芸術性を求めるとは、書き手と読み手において、どんな関係を構築するのであるのかを考察する為の記述である。そして、いかにして、芸術性は、芸術として昇華されるかを論述した。
書き手の詩作プロセスにおける、芸術性の前提とは、何であろうか。
書きたいという欲求と、対象への美意識の発現、その両者の感情を現実化する写実性を含めた美的創造、ここに根本的な芸術性を見出すのであろうか。
芸術と美は、芸術的な方法によって創出された対象が提示する一つの関係性である。
また、美を提示するための手段として、言語を介在した詩作の中に芸術性を顕現させる事が、芸術手段における目的となる、顕現させる事は、時に意図的であり、時に偶然性を伴う。またそれは、美的心象を投影させる事が、書き手には詩作芸術性の目的となることである。
芸術性というあいまいさを保持する表現ではなく、芸術とは何か、美とは何か、を問いた場合、芸術それ自体は、対象に芸術性を帯びさせるというのとは異なる。それでは、具体的な対象としての芸術と、芸術性は、それぞれ異質な存在であるのだろうか。
あるいは言い換えると、芸術性を持つ詩作という場合と、芸術作品である詩作というのは、異なるのであろうかという事である。これは、言語の意味論の問題ではなく、芸術に纏わる根本の命題である。
これらの観点から、両者の関係を分析することで、詩作における芸術性及び芸術に迫ろうとするのが本論述の試みである。
また、何故、芸術性という要因を論点に選択したかについては、哲学的に考察すると、芸術性は、どこかに形而上学的なニュアンスを持つからである。
その為、論点を哲学的な立場から進められるという点で、芸術性という対象を選択した。前述した要点をすべて考慮した上で、芸術性という立場から、どのような要因が関係するのかを明白にし、詩作の芸術性という立場で論点を定め論述は展開するが、芸術性は「ある」という前提ではなく、芸術性は本当に「存在するのか」という懐疑性を含ませることで、論述対象を明確化する手法を取る。そして、芸術性と芸術の関係を明確にする。
詩作品を解釈する場合、読み手が異なるという条件上、提示された作品が芸術的か否かは、常に主観性からは逃れられない。これは、芸術性は、主観的、感性的であるという事実であり、Aという読み手にとっては、詩作上に芸術性を認識しても、Bという読み手にとっては、同じ作品であっても芸術性は意識されない場合がある。つまり、芸術性は、客観的に成立されるのかという争点を持ち、なおかつ、AとBでそれぞれの関係性を成立させるような関係である。芸術性、非芸術性そのものの関係は、常に詩作上に顕現するという事である。つまり、詩作と芸術性、非芸術性が結ばれている。
それではここで、芸術性に真実という要素を組み込むとどうなるであろうか。真実に判断基準を置き、芸術性に当てはめると、対象はどのような形態を持つに至るのであろうか。
対象となる作品上で、Aという読み手にとって芸術性は、真実として捉えられる、しかし、Bという読み手にとっては、真実ではない、つまり、芸術性は存在しない。このように、真実が、AとBに両者にとって異なる場合、Aという読み手においても、Bという読み手においても、両方の条件を満たす、そのような芸術性における真実という存在は、あり得るのだろうか。裏を返せば、芸術性に、絶対はあり得るのかという事である。その場合の前提としては、100人の人間が、芸術性を認めた時、芸術性が、否定を伴わない真実となりえるのかというという事である。そして、それは、果たして実際にあり得るのかという事が浮き彫りにされる。
しかし、AとBに両者にとって異なる場合は、芸術性対象は、同一対象でありながら、真実であり、また真実でない、これは、芸術性であり、非芸術性であると言い換えられる。もし、この条件が当てはまるならば、芸術性は、主観的範疇を超えることはない、何故なら、芸術性に対し、Aは、Bを否定し、Bは、Aを否定する。そして、Aは、Aを肯定し、BはBを肯定するという論理が成立するからである。
そして、その両条件を満たす場合、芸術という存在は、その両条件下で成立するのだろうか。つまり、芸術性においては、真実という存在が芸術とは異なる方法で提示されるのではないか。それは、詩作における芸術性は、読み手に依存し、読み手の主観的範疇内で真実として合致させるからであると考えられる。つまり、対象と主観この関係において、芸術性は成立しうるという事である。では、芸術とは、何か、客観的な存立によって成立する対象なのではないか。芸術性を昇華した結果、価値の付与後に、創出される対象、それが芸術であると考えられる。つまり、形而上的に捉えられるという点は、ここにある。
論述が芸術性にフォーカスを当てているという点から、逸れないように要約すると、Aは、Bを否定し、Bは、Aを否定する。そして、Aは、Aを肯定し、BはBを肯定する、この条件の合致は、芸術性は、主観的、感性的であるという事実を意味する。そして、そこから、芸術が成立するプロセスに至らせる。
それならば、芸術性において主観が真実であるのは、必ず主観内でしかない、また、芸術性において、私は、必ず正しいという判断基準を持つことになる。
しかし、その命題が客観的な範疇を持ちえるなら、真実という認識対象は、次段階の解釈としてとらわれなければならない。つまり、芸術性は、Aという読み手にとっては真実であるが、Bという読み手にとっては、真実ではないというのが、客観的な真実なのではないかという事である。一対象が、同時に2つの相反する真実を持っている、芸術性において、私は、正しくあり、私は正しくない、という事が成立する。
論理上、これは、真実になるのだろうか。
また、客観的な立場としてあり得るのであろうか。
一対象に相反する判断が現前化する事、これは対立であり、同一対象上に受容されるのであろうか。芸術と非芸術性が対象に同一化されている、判断を付与されていながら。
要するに、この解釈から、芸術性の形而上解釈が必然化される。対立をしていることで、形而上的に芸術性が判断を持つという事である。その為、Aは、Bを否定し、Bは、Aを否定する。そして、Aは、Aを肯定し、BはBを肯定するという現象が、芸術性として受容される。
プロセスを通じて、芸術性は、芸術へと昇華するというのがここでの結論である。
ここまでは、既に芸術性が認識されうる作品、作品化後それ自体に対する、読み手の解釈からの考察であったが、芸術性は、私は、正しくあり、私は正しくないという命題に対し、芸術性は、芸術へと昇華するという結論を導くと述べたが、次に、詩的作品の制作過程が書き手において、芸術性を意識するとはどのようなことなのかを述べてみたい。この点は、意識レベル下でのプロセスの考察である。
すでに、結論的には述べたが、芸術性の形而上解釈がプロセス的に必然化されるという事であるが、書き手においてどのように現前化するのかというのが、ここでの検証課題となる。
書き手が、詩という作品を対外的に提示する場合、対外における、芸術性の価値付与及び、整合性と均衡性は、作品過程において、アプリオリに考慮されるものであり、主観性が客観性への変換を端緒させられえるのは、書き手においては、唯一、このプロセスにおいてである。つまり、プロセス上、作品構築の過程において、書き手は、芸術性の形而上が必然化させるという操作を行使するのである。
芸術性の形而上が必然化させるという操作とはどのような事であるか、ここで、書き手の立場に条件を付帯させる為、定義付けるが、主観性の集合が、同一価値観を持ち、その対象に主観性間で、価値を共有し、同一価値観の認識後、客観性を含んだ時、芸術性は芸術としての価値を、芸術対象に付与される。つまり、作品に芸術性を認識的具現化とする。それでは、どこから、その価値観は来るのであろうか。それは、美意識からなのであろうか。確かに美意識そのものは、認識の一種であることには変わりはないが、本来的に備わっている美意識の抽出が、芸術性を開示するのであろうか。それでは、書き手は、美意識の抽出を行使するために、同時に芸術性をも抽出するのであろうか。では、この美意識と芸術性の抽出プロセス上においても、書き手は、芸術性の形而上が必然化させるという操作を行使するのであろうか。
書き手にとっては、それらすべての関係性が統括的に成立してゆく事によって、芸術性の価値は、決定され、かつ対象化され、客観となる。つまり、芸術性の形而上が必然化させるという操作が詩作の目的となるという事である。詩作は、芸術を生み出す、手段である。
これらを前提として、さらに論述を進めると、すべての条件が形成され、かつ成立した芸術対象に、書き手は、明白な芸術性があると評価していながら、つまり、ここでは、形而上的に書き手においては、芸術性が確立されている場合、(芸術として昇華はされていない。)読み手はこの対象は芸術性を保持しないと否定された場合、「芸術」そのものは、のちのプロセスにおいて、どのようにして成立するであろうか。
もし、成立するならば、どの部分に決定があるのだろうか。
Aは、書き手、Bは、読み手とし、Aは、Bを否定し、Bは、Aを否定する。そして、Aは、Aを肯定し、BはBを肯定するという現象、どのプロセス上で、芸術性がそれぞれの決定性を提示するのか。
書き手が、これは芸術性を保持すると宣言されて、芸術作品となるのか、読み手が評価することで、芸術作品となるのか。あるいは、相互的な評価によるのか。
対象が提示する認識関係性は、主観要件、客観要件、あるいは、主観と客観の両要件としての可能性が見いだせる。つまり、芸術性とは、主観要件、客観要件、あるいは、主観と客観の両要件の眼前化である。
そこに、芸術性があり、詩作の哲学的な範疇が捉えられる。
この哲学的な範疇が導かれたと時点で、以下の分析対象を提示する。
1.A(書き手)とB(読み手)、
2.C(読み手)とD(読み手)
3.介在する対象P(詩作)
これらの分析要素から、1-3、2-3間の芸術性は、主観要件、客観要件、あるいは、主観と客観の両要件がどのように成立する可能性があるのであろうか。
芸術的な価値観に主観性を回避できないとした条件の場合、芸術の社会的な価値観の受容性がここでは意識される、つまり、変容するプロセスとなり、それは、プロセスにおいて、芸術性を浮き彫りにし、芸術へと志向すると考えられ、かつ、芸術へと昇華される。つまり、形而上的に芸術性が認識のプロセス経た結果、芸術に変換されるという事である。
芸術性から芸術への昇華、そのものである。
これまで、論述してきた項目をここで分析課題として提示し、芸術性に関する論述を進める。
1.A(書き手/芸術性)とB(読み手/非芸術性)、
2.C(読み手/芸術性)とD(読み手/非芸術性)
3.介在する対象P(詩作、芸術性)
芸術性の成立の組み合わせ
比較条件:
(1)Aは、Bを否定し、Bは、Aを否定する。そして、Aは、Aを肯定し、BはBを肯定する。
(2)Aは、Pを肯定し、Bは、Pを否定する。そして、Aは、Bを否定し、BはAを否定する。
(3)(志向条件)Aは、Pを(肯定/芸術性)し、Bは、Pを(肯定/非芸術性)する。そして、Aは、Bを肯定(芸術性/非芸術性)し、BはAを肯定(芸術性/非芸術性)する。
2-3
(1)Cは、Dを否定し、Dは、Cを否定する。そして、Cは、Cを肯定し、DはDを肯定する。
(2)Cは、Pを肯定し、Dは、Pを否定する。そして、Cは、Dを否定し、DはCを否定する。
(3)(志向条件)Cは、Pを肯定(肯定/芸術性)し、Dは、Pを肯定(肯定/非芸術性)する。そして、Cは、Dを肯定(芸術性/非芸術性)し、CはDを肯定(芸術性/非芸術性)する。
これが、芸術性の確立における論理の組み合わせであり、ここから、芸術への転換を行う、そして、この論理の組み合わせは、以下のプロセス上に表象される。
芸術性/芸術観念顕現プロセス:
(時間軸はそのまま、数字に増加が時間の経過に比例する。)
主観性 (書き手における主観的発現)
2.作品化プロセス (書き手における主観から客観への変換)
芸術性対外的提示(作品化、芸術性の顕現、哲学的範疇顕現)
同一、差異価値観(対象化の価値付与)
5.芸術性価値の客観的価値含有
6. 主観、客観関係性の成立
7. 芸術的な価値観の関係的構築決定、客観化。
8. 芸術の社会的な受容性、客観的価値上における芸術性の価値、芸術の一般的な認知。
芸術性の成立に行ける論理の組み合わせを前提としながら、上記顕現プロセスと、美と芸術性を論述しながら、詩的作品における芸術性の分析を試みたい。
主観性 (書き手における主観的発現)
書き手における主観的発現、これが、発端のすべてとなる。
そしてこの作品対象への契機は、常に主観性が、初現点となる。この発端がなければ、対外としての対象化は行使されない、つまり、最後のプロセスである芸術そのものは、成立しない。
ただし、ここで芸術的な創造においては、条件が必要である。ただ単に、美しいという心象では、芸術性は成立しない、詩作においては、美しいという心象と、書きたいという、欲求(表現をしたいという感情)が合致して初めて、書き手による(美的な解釈を題材とする)作品創造が開始される。
芸術性の発現は、両者の組み合わせによって成立し、美しいという心象の対外構築、対象化が芸術性の発端となる。
主観性のプロセスで、美しいと感じる事それ自体、主観性の域を脱しないのは、芸術性を保持する作品として、対象化されていないからであるが、それは、私が感じる美意識が、芸術性を伴い、客観化されていないからにすぎない。
例えば、作品対象化されていない場合でも、「美しい」と言語化した場合に、言語化によって対象化されるが、芸術性は、表象化はしない。例えば、ある人の日記で、
「今日、海を見た。綺麗だった。」
主観的心象表現であるなら、そこに芸術性はなく、ここでは、言語化に終始する。つまり、主観的、客観的芸術性の判断がないという事になる。(この一文で、主観的に芸術性を見出しうるならば、それは、プロセスをこなしてゆく可能性はあるが、客観化される時点で、消失する可能性が高い。)
それでは、言語化に終始しない場合、「美しい」と感じた時点では、主観的であるが、これを言語化し、(ここまでは、日記を言語化するという行為とは変わらない。)そして、創造された作品に対して、世界に広めたいという共感的な感情を欲した場合、芸術性はどのような対象として変容するのであろうか。
これは、存在論的になるが、共有することで自分を確かめるという対象認識性が機能すると考えられる。そうして次段階である、作品化プロセスに進む。つまり、プロセスの契機がこの段階(1. 主観性 (書き手における主観的発現))で顕現するという事である。
2.作品化プロセス (書き手における主観から客観への変換)
作品化プロセス (書き手における主観から客観への変換)内部のプロセス的には、以下のプロセスとして前段階のプロセス、(1.主観性)の細分化が行われる。
1.主観性
(1)主観的な美的発心
(2)主観的対象化志向
(3)対象化顕現(言語化)
(4)対象共有性の志向、対外提示。
(1)から(4)までは、書き手におけるプロセスであり、他者の存在への意識はない。
要約するとこれらは、書き手の主観的な範疇で実施されているのである。
それでは、どのプロセス上で、芸術性は伴うのか。
書き手においては、(1)の時点で決定付けられていると考えられる。作品化という未決定要素対象に芸術性を決定しているのは、この美的発心であり、美的心象の外部構成化以前に芸術性顕現の確定が行使されているのではないかという推測が論点である。
美的心象を志向し、対象化したいというのは、対象化という認識プロセスを芸術的に変換させて一般論化させる方法との違いに過ぎない。つまり、形式的には、対象化の変換認識プロセスと同一である。
これは、既に論述したが、美的発心は変わらない場合で、ある人の日記という言語化と、詩人の詩という言語化の相違を例にとれば明白である。
すべてを決定するのは、(1)の主観的な美的発心であり、それ以降の8. 芸術の社会的な受容性、客観的価値上における芸術性の価値に至る最終局面まで、全てがこの
1.主観性(1)主観的な美的発心によって芸術性は決定される。
芸術性の言語化プロセスを具体的に説明すると、
書き手の一行動として、(対象化されていない事を前提にする)
1.私は、海を見た。
2.波の音が美しく感じた。
3.波が、悲しい音楽を奏でていた。
この2の部分、
「波の音」
「美しく」
「感じた。」
この部分に主観的な美的発心が認められる。
(美的発心を純粋化する為、海を見る理由などは、この分析においては、対象外にする。)
では、こころで、
(1)主観的な美的発心
から、
(2)主観的対象化志向
に遷移するのは、どのような要因が関係するのか。
本来ならば、
2.波の音が美しく感じた。
この部分で、主観性に終始すれば、芸術的な対象は想像されることはない。
芸術は、
(1)主観的な美的発心
(2)主観的対象化志向
この二つが書き手に表象化されることで、対象が具現化される。
そして、3.波が、悲しい音楽を奏でていた。
ここで、表象化された言語に芸術性を書き手は意図的に含めようする。
海に感情を映し、かつ、海を擬人化するという操作を行うことで言語化し芸術化を試みる志向である。
(3)対象化顕現(言語化)
このプロセスでは、詩的な部分として、詩の目的志向性が顕現される。
つまり、以下のプロセス
(1)主観的な美的発心
(2)主観的対象化志向
を通じ、
(3)対象化顕現(言語化)
で芸術性が対象化される、言語化を伴って、芸術性が表現される。詩作として提示されるプロセスである。
私は、海を見た。
波の音が美しく感じた。
波が、悲しい音楽を奏でていた。
これは、書き手においては、詩として成立しているが、はたして、対象の派生段階としての(4)対象共有性の志向、対外提示では、詩として成立するのであるか、つまり、客観評価としての芸術性が、ここでの書き手側からの志向となる。
芸術性は、公共性を持たなければ、芸術性でなないのだろうか、という問い掛けが生まれる。そして、公共性が確立した段階で、芸術へ結びつけるというのが志向となる。
この志向性を確かめる為に、これまで差別化してきた、日記と詩にプロセスを当てはめるとどうなるのであろうかを検証してみたい。
書き手は、最初から日記として言語化した場合、また、主観範疇を出ない場合、芸術性は、どのようになるのであろうか。
日記:
私は、海を見た。
波の音が美しく感じた。
波が、悲しい音楽を奏でていた。
この部分の芸術性の比較解釈は、次のプロセスとなる。
日記として書かれた場合は、主観範疇であるが、対外的には詩として提示されるなら、芸術性はどのように解釈されるか。対外的に芸術性は成立するのではないか。
それならば、初源的に芸術性は、カテゴリー範疇、詩とか、日記とか、文学のカテゴリー範疇を超えているのではないか、未決定として表象化されるのではないかという真実が、2.作品化プロセス (書き手における主観から客観への変換)である。そして、それを決定つけるのは何かについて、を踏まえながら次のプロセスに進みたい。
芸術性対外的提示(作品化、芸術性の顕現)
成立条件は、すでに書き手が作品に芸術性を実装している。
このプロセスでの問い掛けは、書き手の志向として、芸術性の価値観は、芸術性対外的提示によって成立するのであろうかという事である。
これまでのプロセス、
主観性 (書き手における主観的発現)
2.作品化プロセス (書き手における主観から客観への変換)
と作品の提示によって、主観範疇では、芸術性は顕現しているとなされた時、何故、客観的な価値観が必要となるかの理由に関しては、3. 芸術性対外的提示(作品化、芸術性の顕現)が主な論点となる。
また、書き手における、認識論(対外的アイデンティティ確立と付与)、及び、存在論(対外的認知における主観的客観的確立)が考察される。その理由として、書き手である主観が、対外的な関係を成立し、対外志向の発現となる事で、現実化という遷移に至るからである。
それでは、芸術性は何故、対外的な認知を要求するのか。
簡単に述べると、美的発心から始まった対象化プロセスが、対象化の関係確立を要求する為であり、それまでのプロセスでは、主観的範疇で芸術性は成立している、あるいは、成立しているように見せかけているので、その成立プロセスに対して、対象の客観関係が生まれる端緒を要求するからである。そして、その要求から、認識論(対外的アイデンティティ確立と付与)、及び、存在論(対外的認知における主観的客観的確立)に拡張される。
ここで、芸術性の認知及び、詩作の哲学的な範疇の条件を提示する。
対象条件:
1.A(書き手)とB(読み手)、
2.C(読み手)とD(読み手)
3.介在する対象P(詩作、芸術性)
が対外提示の関係性として提示される対象となる。
この対象条件から前述した、芸術性の成立における論理の組み合わせが顕現し、この論理の組み合わせは、以下の4. 同一、差異価値観(対象化の価値付与)プロセスによって、単純化なされるが、客観関係としては明確化される。つまり、前述した対象条件は、客観化への志向となる。
この段階から3. 芸術性対外的提示(作品化、芸術性の顕現)は、次のプロセスへと遷移する。
同一、差異価値観(対象化の価値付与)
このプロセスは、前述した、芸術性の成立の組み合わせそのものであり。このプロセスで、
芸術性の対象は、どのように認識されてゆくかという段階である。
これまでの1から3のプロセスで、主観的範疇で芸術性は成立しているのは考察され、そこで対象の客観関係が生まれる、認識論(対外的アイデンティティ確立と付与)、及び、存在論(対外的認知における主観的客観的確立)に拡張された志向を、4. 同一、差異価値観(対象化の価値付与)
のプロセスで実現化に向ける、つまり、芸術性が芸術を志向するための初現的プロセスとである。
読み手Aにとっては、対象Cの芸術性を認識し、読み手Bにとっては対象Cの芸術性を認識しない、ここから派生する論理関係がこのプロセスの中心となる対象である。
読み手:A 芸術性
読み手:B 非芸術性
詩作品:C 芸術性非決定
比較条件:
Aは、Cを肯定し、Bは、Cを否定する。
Aは、Bを否定し、Bは、Aを否定する。そして、Aは、Aを肯定し、BはBを肯定する。
同一、差異価値観(対象化の価値付与)のプロセスでは、上記の関係性を提示することで、芸術性が芸術を志向し、芸術性の客観化が行われる。芸術性の対象関連として非決定として、詩作品を対象化する。
そして、次段階で、芸術性の客観的抽出の操作が行われる。
5.芸術性価値の客観的価値含有
このプロセスでは、芸術性の客観的抽出の操作が行われる。
そして、次の段階においては、芸術性の昇華と排他が行われる。
その為に、このプロセスが、芸術への志向性の段階となる。
読み手:A 芸術性
読み手:B 非芸術性
詩作品:C 芸術/非芸術-非決定
Aは、Cを肯定する。
Aは、Bを否定し、Aを肯定する。
この関係において、以下の論理を成立させることで、
読み手:A 芸術性と、詩作品:Cに芸術性の関係を確立させることで、芸術性の志向性の要求を満たすというプロセスである。
そして、この志向性で、芸術性が認知される初段階である。
換言すると、詩作品:C 芸術/非芸術-非決定に価値決定するための初源的なプロセスであり、その契機は、否定性が生じ、その否定性の排除する事によって、芸術性が芸術を志向するという対象志向が確立していくというプロセスがここにはあるが、あくまでも、前段階であり、それらの操作は、このプロセス上では、行使されない。ここでは、芸術性を抽出するプロセスである。
6. 主観、客観関係性の成立
プロセス5で抽出された芸術性が、その志向性をさらに満たす為の段階が、次の条件として提示される。
そして、これらの対象間関係から、芸術性が、形而上的に展開され芸術となる契機となるプロセスである。
1.A(書き手/芸術性)とB(読み手/非芸術性)、
2.C(読み手/芸術性)とD(読み手/非芸術性)
3.介在する対象P(詩作、芸術性)
芸術性の成立の組み合わせ
比較条件:
(1)Aは、Bを否定し、Bは、Aを否定する。そして、Aは、Aを肯定し、BはBを肯定する。
(2)Aは、Pを肯定し、Bは、Pを否定する。そして、Aは、Bを否定し、BはAを否定する。
(3)Aは、Pを(肯定/芸術性)し、Bは、Pを(肯定/非芸術性)する。そして、Aは、Bを肯定(芸術性/非芸術性)し、BはAを肯定(芸術性/非芸術性)する。
2-3
(1)Bは、Cを否定し、Cは、Bを否定する。そして、Bは、Bを肯定し、CはCを肯定する。
(2)Bは、Pを肯定し、Cは、Pを否定する。そして、Bは、Cを否定し、CはBを否定する。
(3)Bは、Pを肯定(肯定/芸術性)し、Cは、Pを肯定(肯定/非芸術性)する。そして、Bは、Cを肯定(芸術性/非芸術性)し、BはCを肯定(芸術性/非芸術性)する。
これらの芸術性の成立の組み合わせを通じ、排他的関係提示という関係提示がプロセス上で行使される。
主観、客観関係性の成立段階では、上記の関係性はさらに進化し、芸術性が排他的な操作によってその芸術性を純化されて獲得する。その対象が、そこで獲得された芸術性に条件展開をさせることで、芸術性を純粋に認識していく。そして、この段階で、芸術性が形而上に表象化される。排他的な作用が、表象化を行使する。
ここまでのプロセスを纏めると、
1.主観
2-4.客観提示、主観/客観構築プロセス/芸術性の確立
5.主観/客観/排他性/芸術志向契機/芸術性の決定
6.介在対象上での主観/客観の確立及び
客観(主観客観の確立)/客観の志向-芸術志向契機
これらのプロセスを経過する事で、3.介在する対象P(詩作、芸術性)が、客観/客観関係上に関係性を構築する。つまり、ここでは、芸術への志向の二次的な契機を提示する。
なお、一次的な契機は、芸術性への志向である。
7. 芸術的な価値観の関係的構築決定、客観化
このプロセスでは、客観(主観客観の確立)/客観上における芸術性が、
非芸術性を排他する事で、芸術志向が芸術として確立するプロセスである。
それは、客観(主観客観の確立)/客観での芸術としての認識であり、以下の条件が、ここへは、排他されることで、形而上的に芸術性を芸術へと昇華し、芸術を純粋に確立するプロセスとなる。
その論理転換は、否定性を排除するという単純な方法である。
1.A(書き手/芸術性)とB(読み手/非芸術性)、
2.C(読み手/芸術性)とD(読み手/非芸術性)
3.介在する対象P(詩作、芸術性)
芸術性の成立の組み合わせ
比較条件:
(1)Aは、Bを否定し、Bは、Aを否定する。そして、Aは、Aを肯定し、BはBを肯定する。
(2)Aは、Pを肯定し、Bは、Pを否定する。そして、Aは、Bを否定し、BはAを否定する。
(3)(志向条件)Aは、Pを(肯定/芸術性)し、Bは、Pを(肯定/非芸術性)する。そして、Aは、Bを肯定(芸術性/非芸術性)し、BはAを肯定(芸術性/非芸術性)する。
2-3
(1)Cは、Dを否定し、Dは、Cを否定する。そして、Cは、Cを肯定し、DはDを肯定する。
(2)Cは、Pを肯定し、Dは、Pを否定する。そして、Cは、Dを否定し、DはCを否定する。
(3)(志向条件)Cは、Pを肯定(肯定/芸術性)し、Dは、Pを肯定(肯定/非芸術性)する。そして、Cは、Dを肯定(芸術性/非芸術性)し、CはDを肯定(芸術性/非芸術性)する。
という比較条件から、否定性(非芸術性)を排除する事で、以下の関係性を構築するプロセスである。詩作が芸術性を認知しているという事で、芸術性に正当性を付与するという事である。
これが排除操作であり、
1.A(書き手/芸術性)とB(読み手/非芸術性)、
2.C(読み手/芸術性)とD(読み手/非芸術性)
3.介在する対象P(詩作、芸術性)
次のプロセスで芸術性の成立の組み合わせを以下の通り、排他後に抽出する。
比較条件:
(1)Aは、Aを肯定する。(芸術性)
(2)Aは、Pを肯定する。(芸術性)
2-3
(1)Cは、Cを肯定する。
(2)Cは、Pを肯定する。
芸術性の否定、非芸術性となる要素すべてを排除することで、芸術へと展開させるのがこのプロセスである。その為の志向条件そのものが排除され、芸術が成立する。
プロセス5の排除と異なるのは、主観客観上に芸術性を成立させている点であり、
主観上に介在する対象P(詩作)の芸術性を決定するのではなく、客観関係上で決定する点である。
否定対象がない段階、ここで、芸術性が、芸術へと変換され、確立される。
1.A(書き手)P(芸術)、
2.C(読み手)P(芸術)
3.介在する対象P(詩作、芸術)
つまり、A--C間でPは、芸術を成立させている。-
8. 芸術の社会的な受容性、客観的価値上における芸術性の価値、芸術の一般的な認知。
1.A(書き手/芸術)、
2.C(読み手/芸術)
3.介在する対象P(詩作、芸術)
芸術性を求める、志向するとは、そのものが芸術への志向の契機であり、プロセス上に顕現がなされる現象がこのプロセスでは、客観的な認知として展開される。主観、客観の遷移がプロセス上に反映されているという事である。
そして、芸術性を成立させるために、排他操作を伴って、形而上に芸術観念として昇華することで、芸術を確立する。このプロセスにおいては、以下の詩作対象が芸術性から変換された芸術として客観対象化され、対社会に受容志向を確立、不特定多数によって認知されることで、芸術の志向性が満たされることになる。芸術性の分析は、詩作に含まれる比喩などのレトリックというフォルマリズム的な観点ではなく、芸術性という対象に純粋な視点を置いた結果、芸術の社会的な受容性、客観的価値上における芸術性の価値、芸術の認知が行われる。
つまり、社会という客観現象上で、詩作対象が芸術として確立するというのが最後のプロセスとなる。
主観的な美的発心が、詩作になり、そして芸術性を成立、客観的な関係と操作を経た後で、芸術へと転換する。
私は、海を見た。
波の音が美しく感じた。
波が、悲しい音楽を奏でていた。
詩作品は、芸術性から芸術へと変換するプロセスの顕現ある。

2020年8月27日 東京

詩的作品における芸術性
The Conference CIVAE 2020
スペイン語論文 
Artisticidad en obras poéticas
日本語オリジナル

詩作は、言語表現の規則に従った単語の組み合わせであるが、その組み合わせにおいて、芸術的な美的性が顕現するという事は、何を意味するのであろうか。
これは、詩作における、芸術性に関する論述であり、芸術性を求めるとは、書き手と読み手において、どんな関係を構築するのであるのかを考察する為の記述である。そして、いかにして、芸術性は、芸術として昇華されるかを論述した。
書き手の詩作プロセスにおける、芸術性の前提とは、何であろうか。
書きたいという欲求と、対象への美意識の発現、その両者の感情を現実化する写実性を含めた美的創造、ここに根本的な芸術性を見出すのであろうか。
芸術と美は、芸術的な方法によって創出された対象が提示する一つの関係性である。
また、美を提示するための手段として、言語を介在した詩作の中に芸術性を顕現させる事が、芸術手段における目的となる、顕現させる事は、時に意図的であり、時に偶然性を伴う。またそれは、美的心象を投影させる事が、書き手には詩作芸術性の目的となることである。
芸術性というあいまいさを保持する表現ではなく、芸術とは何か、美とは何か、を問いた場合、芸術それ自体は、対象に芸術性を帯びさせるというのとは異なる。それでは、具体的な対象としての芸術と、芸術性は、それぞれ異質な存在であるのだろうか。
あるいは言い換えると、芸術性を持つ詩作という場合と、芸術作品である詩作というのは、異なるのであろうかという事である。これは、言語の意味論の問題ではなく、芸術に纏わる根本の命題である。
これらの観点から、両者の関係を分析することで、詩作における芸術性及び芸術に迫ろうとするのが本論述の試みである。
また、何故、芸術性という要因を論点に選択したかについては、哲学的に考察すると、芸術性は、どこかに形而上学的なニュアンスを持つからである。
その為、論点を哲学的な立場から進められるという点で、芸術性という対象を選択した。前述した要点をすべて考慮した上で、芸術性という立場から、どのような要因が関係するのかを明白にし、詩作の芸術性という立場で論点を定め論述は展開するが、芸術性は「ある」という前提ではなく、芸術性は本当に「存在するのか」という懐疑性を含ませることで、論述対象を明確化する手法を取る。そして、芸術性と芸術の関係を明確にする。
詩作品を解釈する場合、読み手が異なるという条件上、提示された作品が芸術的か否かは、常に主観性からは逃れられない。これは、芸術性は、主観的、感性的であるという事実であり、Aという読み手にとっては、詩作上に芸術性を認識しても、Bという読み手にとっては、同じ作品であっても芸術性は意識されない場合がある。つまり、芸術性は、客観的に成立されるのかという争点を持ち、なおかつ、AとBでそれぞれの関係性を成立させるような関係である。芸術性、非芸術性そのものの関係は、常に詩作上に顕現するという事である。つまり、詩作と芸術性、非芸術性が結ばれている。
それではここで、芸術性に真実という要素を組み込むとどうなるであろうか。真実に判断基準を置き、芸術性に当てはめると、対象はどのような形態を持つに至るのであろうか。
対象となる作品上で、Aという読み手にとって芸術性は、真実として捉えられる、しかし、Bという読み手にとっては、真実ではない、つまり、芸術性は存在しない。このように、真実が、AとBに両者にとって異なる場合、Aという読み手においても、Bという読み手においても、両方の条件を満たす、そのような芸術性における真実という存在は、あり得るのだろうか。裏を返せば、芸術性に、絶対はあり得るのかという事である。その場合の前提としては、100人の人間が、芸術性を認めた時、芸術性が、否定を伴わない真実となりえるのかというという事である。そして、それは、果たして実際にあり得るのかという事が浮き彫りにされる。
しかし、AとBに両者にとって異なる場合は、芸術性対象は、同一対象でありながら、真実であり、また真実でない、これは、芸術性であり、非芸術性であると言い換えられる。もし、この条件が当てはまるならば、芸術性は、主観的範疇を超えることはない、何故なら、芸術性に対し、Aは、Bを否定し、Bは、Aを否定する。そして、Aは、Aを肯定し、BはBを肯定するという論理が成立するからである。
そして、その両条件を満たす場合、芸術という存在は、その両条件下で成立するのだろうか。つまり、芸術性においては、真実という存在が芸術とは異なる方法で提示されるのではないか。それは、詩作における芸術性は、読み手に依存し、読み手の主観的範疇内で真実として合致させるからであると考えられる。つまり、対象と主観この関係において、芸術性は成立しうるという事である。では、芸術とは、何か、客観的な存立によって成立する対象なのではないか。芸術性を昇華した結果、価値の付与後に、創出される対象、それが芸術であると考えられる。つまり、形而上的に捉えられるという点は、ここにある。
論述が芸術性にフォーカスを当てているという点から、逸れないように要約すると、Aは、Bを否定し、Bは、Aを否定する。そして、Aは、Aを肯定し、BはBを肯定する、この条件の合致は、芸術性は、主観的、感性的であるという事実を意味する。そして、そこから、芸術が成立するプロセスに至らせる。
それならば、芸術性において主観が真実であるのは、必ず主観内でしかない、また、芸術性において、私は、必ず正しいという判断基準を持つことになる。
しかし、その命題が客観的な範疇を持ちえるなら、真実という認識対象は、次段階の解釈としてとらわれなければならない。つまり、芸術性は、Aという読み手にとっては真実であるが、Bという読み手にとっては、真実ではないというのが、客観的な真実なのではないかという事である。一対象が、同時に2つの相反する真実を持っている、芸術性において、私は、正しくあり、私は正しくない、という事が成立する。
論理上、これは、真実になるのだろうか。
また、客観的な立場としてあり得るのであろうか。
一対象に相反する判断が現前化する事、これは対立であり、同一対象上に受容されるのであろうか。芸術と非芸術性が対象に同一化されている、判断を付与されていながら。
要するに、この解釈から、芸術性の形而上解釈が必然化される。対立をしていることで、形而上的に芸術性が判断を持つという事である。その為、Aは、Bを否定し、Bは、Aを否定する。そして、Aは、Aを肯定し、BはBを肯定するという現象が、芸術性として受容される。
プロセスを通じて、芸術性は、芸術へと昇華するというのがここでの結論である。
ここまでは、既に芸術性が認識されうる作品、作品化後それ自体に対する、読み手の解釈からの考察であったが、芸術性は、私は、正しくあり、私は正しくないという命題に対し、芸術性は、芸術へと昇華するという結論を導くと述べたが、次に、詩的作品の制作過程が書き手において、芸術性を意識するとはどのようなことなのかを述べてみたい。この点は、意識レベル下でのプロセスの考察である。
すでに、結論的には述べたが、芸術性の形而上解釈がプロセス的に必然化されるという事であるが、書き手においてどのように現前化するのかというのが、ここでの検証課題となる。
書き手が、詩という作品を対外的に提示する場合、対外における、芸術性の価値付与及び、整合性と均衡性は、作品過程において、アプリオリに考慮されるものであり、主観性が客観性への変換を端緒させられえるのは、書き手においては、唯一、このプロセスにおいてである。つまり、プロセス上、作品構築の過程において、書き手は、芸術性の形而上が必然化させるという操作を行使するのである。
芸術性の形而上が必然化させるという操作とはどのような事であるか、ここで、書き手の立場に条件を付帯させる為、定義付けるが、主観性の集合が、同一価値観を持ち、その対象に主観性間で、価値を共有し、同一価値観の認識後、客観性を含んだ時、芸術性は芸術としての価値を、芸術対象に付与される。つまり、作品に芸術性を認識的具現化とする。それでは、どこから、その価値観は来るのであろうか。それは、美意識からなのであろうか。確かに美意識そのものは、認識の一種であることには変わりはないが、本来的に備わっている美意識の抽出が、芸術性を開示するのであろうか。それでは、書き手は、美意識の抽出を行使するために、同時に芸術性をも抽出するのであろうか。では、この美意識と芸術性の抽出プロセス上においても、書き手は、芸術性の形而上が必然化させるという操作を行使するのであろうか。
書き手にとっては、それらすべての関係性が統括的に成立してゆく事によって、芸術性の価値は、決定され、かつ対象化され、客観となる。つまり、芸術性の形而上が必然化させるという操作が詩作の目的となるという事である。詩作は、芸術を生み出す、手段である。
これらを前提として、さらに論述を進めると、すべての条件が形成され、かつ成立した芸術対象に、書き手は、明白な芸術性があると評価していながら、つまり、ここでは、形而上的に書き手においては、芸術性が確立されている場合、(芸術として昇華はされていない。)読み手はこの対象は芸術性を保持しないと否定された場合、「芸術」そのものは、のちのプロセスにおいて、どのようにして成立するであろうか。
もし、成立するならば、どの部分に決定があるのだろうか。
Aは、書き手、Bは、読み手とし、Aは、Bを否定し、Bは、Aを否定する。そして、Aは、Aを肯定し、BはBを肯定するという現象、どのプロセス上で、芸術性がそれぞれの決定性を提示するのか。
書き手が、これは芸術性を保持すると宣言されて、芸術作品となるのか、読み手が評価することで、芸術作品となるのか。あるいは、相互的な評価によるのか。
対象が提示する認識関係性は、主観要件、客観要件、あるいは、主観と客観の両要件としての可能性が見いだせる。つまり、芸術性とは、主観要件、客観要件、あるいは、主観と客観の両要件の眼前化である。
そこに、芸術性があり、詩作の哲学的な範疇が捉えられる。
この哲学的な範疇が導かれたと時点で、以下の分析対象を提示する。
1.A(書き手)とB(読み手)、
2.C(読み手)とD(読み手)
3.介在する対象P(詩作)
これらの分析要素から、1-3、2-3間の芸術性は、主観要件、客観要件、あるいは、主観と客観の両要件がどのように成立する可能性があるのであろうか。
芸術的な価値観に主観性を回避できないとした条件の場合、芸術の社会的な価値観の受容性がここでは意識される、つまり、変容するプロセスとなり、それは、プロセスにおいて、芸術性を浮き彫りにし、芸術へと志向すると考えられ、かつ、芸術へと昇華される。つまり、形而上的に芸術性が認識のプロセス経た結果、芸術に変換されるという事である。
芸術性から芸術への昇華、そのものである。
これまで、論述してきた項目をここで分析課題として提示し、芸術性に関する論述を進める。
1.A(書き手/芸術性)とB(読み手/非芸術性)、
2.C(読み手/芸術性)とD(読み手/非芸術性)
3.介在する対象P(詩作、芸術性)
芸術性の成立の組み合わせ
比較条件:
(1)Aは、Bを否定し、Bは、Aを否定する。そして、Aは、Aを肯定し、BはBを肯定する。
(2)Aは、Pを肯定し、Bは、Pを否定する。そして、Aは、Bを否定し、BはAを否定する。
(3)(志向条件)Aは、Pを(肯定/芸術性)し、Bは、Pを(肯定/非芸術性)する。そして、Aは、Bを肯定(芸術性/非芸術性)し、BはAを肯定(芸術性/非芸術性)する。
2-3
(1)Cは、Dを否定し、Dは、Cを否定する。そして、Cは、Cを肯定し、DはDを肯定する。
(2)Cは、Pを肯定し、Dは、Pを否定する。そして、Cは、Dを否定し、DはCを否定する。
(3)(志向条件)Cは、Pを肯定(肯定/芸術性)し、Dは、Pを肯定(肯定/非芸術性)する。そして、Cは、Dを肯定(芸術性/非芸術性)し、CはDを肯定(芸術性/非芸術性)する。
これが、芸術性の確立における論理の組み合わせであり、ここから、芸術への転換を行う、そして、この論理の組み合わせは、以下のプロセス上に表象される。
芸術性/芸術観念顕現プロセス:
(時間軸はそのまま、数字に増加が時間の経過に比例する。)
主観性 (書き手における主観的発現)
2.作品化プロセス (書き手における主観から客観への変換)
芸術性対外的提示(作品化、芸術性の顕現、哲学的範疇顕現)
同一、差異価値観(対象化の価値付与)
5.芸術性価値の客観的価値含有
6. 主観、客観関係性の成立
7. 芸術的な価値観の関係的構築決定、客観化。
8. 芸術の社会的な受容性、客観的価値上における芸術性の価値、芸術の一般的な認知。
芸術性の成立に行ける論理の組み合わせを前提としながら、上記顕現プロセスと、美と芸術性を論述しながら、詩的作品における芸術性の分析を試みたい。
主観性 (書き手における主観的発現)
書き手における主観的発現、これが、発端のすべてとなる。
そしてこの作品対象への契機は、常に主観性が、初現点となる。この発端がなければ、対外としての対象化は行使されない、つまり、最後のプロセスである芸術そのものは、成立しない。
ただし、ここで芸術的な創造においては、条件が必要である。ただ単に、美しいという心象では、芸術性は成立しない、詩作においては、美しいという心象と、書きたいという、欲求(表現をしたいという感情)が合致して初めて、書き手による(美的な解釈を題材とする)作品創造が開始される。
芸術性の発現は、両者の組み合わせによって成立し、美しいという心象の対外構築、対象化が芸術性の発端となる。
主観性のプロセスで、美しいと感じる事それ自体、主観性の域を脱しないのは、芸術性を保持する作品として、対象化されていないからであるが、それは、私が感じる美意識が、芸術性を伴い、客観化されていないからにすぎない。
例えば、作品対象化されていない場合でも、「美しい」と言語化した場合に、言語化によって対象化されるが、芸術性は、表象化はしない。例えば、ある人の日記で、
「今日、海を見た。綺麗だった。」
主観的心象表現であるなら、そこに芸術性はなく、ここでは、言語化に終始する。つまり、主観的、客観的芸術性の判断がないという事になる。(この一文で、主観的に芸術性を見出しうるならば、それは、プロセスをこなしてゆく可能性はあるが、客観化される時点で、消失する可能性が高い。)
それでは、言語化に終始しない場合、「美しい」と感じた時点では、主観的であるが、これを言語化し、(ここまでは、日記を言語化するという行為とは変わらない。)そして、創造された作品に対して、世界に広めたいという共感的な感情を欲した場合、芸術性はどのような対象として変容するのであろうか。
これは、存在論的になるが、共有することで自分を確かめるという対象認識性が機能すると考えられる。そうして次段階である、作品化プロセスに進む。つまり、プロセスの契機がこの段階(1. 主観性 (書き手における主観的発現))で顕現するという事である。
2.作品化プロセス (書き手における主観から客観への変換)
作品化プロセス (書き手における主観から客観への変換)内部のプロセス的には、以下のプロセスとして前段階のプロセス、(1.主観性)の細分化が行われる。
1.主観性
(1)主観的な美的発心
(2)主観的対象化志向
(3)対象化顕現(言語化)
(4)対象共有性の志向、対外提示。
(1)から(4)までは、書き手におけるプロセスであり、他者の存在への意識はない。
要約するとこれらは、書き手の主観的な範疇で実施されているのである。
それでは、どのプロセス上で、芸術性は伴うのか。
書き手においては、(1)の時点で決定付けられていると考えられる。作品化という未決定要素対象に芸術性を決定しているのは、この美的発心であり、美的心象の外部構成化以前に芸術性顕現の確定が行使されているのではないかという推測が論点である。
美的心象を志向し、対象化したいというのは、対象化という認識プロセスを芸術的に変換させて一般論化させる方法との違いに過ぎない。つまり、形式的には、対象化の変換認識プロセスと同一である。
これは、既に論述したが、美的発心は変わらない場合で、ある人の日記という言語化と、詩人の詩という言語化の相違を例にとれば明白である。
すべてを決定するのは、(1)の主観的な美的発心であり、それ以降の8. 芸術の社会的な受容性、客観的価値上における芸術性の価値に至る最終局面まで、全てがこの
1.主観性(1)主観的な美的発心によって芸術性は決定される。
芸術性の言語化プロセスを具体的に説明すると、
書き手の一行動として、(対象化されていない事を前提にする)
1.私は、海を見た。
2.波の音が美しく感じた。
3.波が、悲しい音楽を奏でていた。
この2の部分、
「波の音」
「美しく」
「感じた。」
この部分に主観的な美的発心が認められる。
(美的発心を純粋化する為、海を見る理由などは、この分析においては、対象外にする。)
では、こころで、
(1)主観的な美的発心
から、
(2)主観的対象化志向
に遷移するのは、どのような要因が関係するのか。
本来ならば、
2.波の音が美しく感じた。
この部分で、主観性に終始すれば、芸術的な対象は想像されることはない。
芸術は、
(1)主観的な美的発心
(2)主観的対象化志向
この二つが書き手に表象化されることで、対象が具現化される。
そして、3.波が、悲しい音楽を奏でていた。
ここで、表象化された言語に芸術性を書き手は意図的に含めようする。
海に感情を映し、かつ、海を擬人化するという操作を行うことで言語化し芸術化を試みる志向である。
(3)対象化顕現(言語化)
このプロセスでは、詩的な部分として、詩の目的志向性が顕現される。
つまり、以下のプロセス
(1)主観的な美的発心
(2)主観的対象化志向
を通じ、
(3)対象化顕現(言語化)
で芸術性が対象化される、言語化を伴って、芸術性が表現される。詩作として提示されるプロセスである。
私は、海を見た。
波の音が美しく感じた。
波が、悲しい音楽を奏でていた。
これは、書き手においては、詩として成立しているが、はたして、対象の派生段階としての(4)対象共有性の志向、対外提示では、詩として成立するのであるか、つまり、客観評価としての芸術性が、ここでの書き手側からの志向となる。
芸術性は、公共性を持たなければ、芸術性でなないのだろうか、という問い掛けが生まれる。そして、公共性が確立した段階で、芸術へ結びつけるというのが志向となる。
この志向性を確かめる為に、これまで差別化してきた、日記と詩にプロセスを当てはめるとどうなるのであろうかを検証してみたい。
書き手は、最初から日記として言語化した場合、また、主観範疇を出ない場合、芸術性は、どのようになるのであろうか。
日記:
私は、海を見た。
波の音が美しく感じた。
波が、悲しい音楽を奏でていた。
この部分の芸術性の比較解釈は、次のプロセスとなる。
日記として書かれた場合は、主観範疇であるが、対外的には詩として提示されるなら、芸術性はどのように解釈されるか。対外的に芸術性は成立するのではないか。
それならば、初源的に芸術性は、カテゴリー範疇、詩とか、日記とか、文学のカテゴリー範疇を超えているのではないか、未決定として表象化されるのではないかという真実が、2.作品化プロセス (書き手における主観から客観への変換)である。そして、それを決定つけるのは何かについて、を踏まえながら次のプロセスに進みたい。
芸術性対外的提示(作品化、芸術性の顕現)
成立条件は、すでに書き手が作品に芸術性を実装している。
このプロセスでの問い掛けは、書き手の志向として、芸術性の価値観は、芸術性対外的提示によって成立するのであろうかという事である。
これまでのプロセス、
主観性 (書き手における主観的発現)
2.作品化プロセス (書き手における主観から客観への変換)
と作品の提示によって、主観範疇では、芸術性は顕現しているとなされた時、何故、客観的な価値観が必要となるかの理由に関しては、3. 芸術性対外的提示(作品化、芸術性の顕現)が主な論点となる。
また、書き手における、認識論(対外的アイデンティティ確立と付与)、及び、存在論(対外的認知における主観的客観的確立)が考察される。その理由として、書き手である主観が、対外的な関係を成立し、対外志向の発現となる事で、現実化という遷移に至るからである。
それでは、芸術性は何故、対外的な認知を要求するのか。
簡単に述べると、美的発心から始まった対象化プロセスが、対象化の関係確立を要求する為であり、それまでのプロセスでは、主観的範疇で芸術性は成立している、あるいは、成立しているように見せかけているので、その成立プロセスに対して、対象の客観関係が生まれる端緒を要求するからである。そして、その要求から、認識論(対外的アイデンティティ確立と付与)、及び、存在論(対外的認知における主観的客観的確立)に拡張される。
ここで、芸術性の認知及び、詩作の哲学的な範疇の条件を提示する。
対象条件:
1.A(書き手)とB(読み手)、
2.C(読み手)とD(読み手)
3.介在する対象P(詩作、芸術性)
が対外提示の関係性として提示される対象となる。
この対象条件から前述した、芸術性の成立における論理の組み合わせが顕現し、この論理の組み合わせは、以下の4. 同一、差異価値観(対象化の価値付与)プロセスによって、単純化なされるが、客観関係としては明確化される。つまり、前述した対象条件は、客観化への志向となる。
この段階から3. 芸術性対外的提示(作品化、芸術性の顕現)は、次のプロセスへと遷移する。
同一、差異価値観(対象化の価値付与)
このプロセスは、前述した、芸術性の成立の組み合わせそのものであり。このプロセスで、
芸術性の対象は、どのように認識されてゆくかという段階である。
これまでの1から3のプロセスで、主観的範疇で芸術性は成立しているのは考察され、そこで対象の客観関係が生まれる、認識論(対外的アイデンティティ確立と付与)、及び、存在論(対外的認知における主観的客観的確立)に拡張された志向を、4. 同一、差異価値観(対象化の価値付与)
のプロセスで実現化に向ける、つまり、芸術性が芸術を志向するための初現的プロセスとである。
読み手Aにとっては、対象Cの芸術性を認識し、読み手Bにとっては対象Cの芸術性を認識しない、ここから派生する論理関係がこのプロセスの中心となる対象である。
読み手:A 芸術性
読み手:B 非芸術性
詩作品:C 芸術性非決定
比較条件:
Aは、Cを肯定し、Bは、Cを否定する。
Aは、Bを否定し、Bは、Aを否定する。そして、Aは、Aを肯定し、BはBを肯定する。
同一、差異価値観(対象化の価値付与)のプロセスでは、上記の関係性を提示することで、芸術性が芸術を志向し、芸術性の客観化が行われる。芸術性の対象関連として非決定として、詩作品を対象化する。
そして、次段階で、芸術性の客観的抽出の操作が行われる。
5.芸術性価値の客観的価値含有
このプロセスでは、芸術性の客観的抽出の操作が行われる。
そして、次の段階においては、芸術性の昇華と排他が行われる。
その為に、このプロセスが、芸術への志向性の段階となる。
読み手:A 芸術性
読み手:B 非芸術性
詩作品:C 芸術/非芸術-非決定
Aは、Cを肯定する。
Aは、Bを否定し、Aを肯定する。
この関係において、以下の論理を成立させることで、
読み手:A 芸術性と、詩作品:Cに芸術性の関係を確立させることで、芸術性の志向性の要求を満たすというプロセスである。
そして、この志向性で、芸術性が認知される初段階である。
換言すると、詩作品:C 芸術/非芸術-非決定に価値決定するための初源的なプロセスであり、その契機は、否定性が生じ、その否定性の排除する事によって、芸術性が芸術を志向するという対象志向が確立していくというプロセスがここにはあるが、あくまでも、前段階であり、それらの操作は、このプロセス上では、行使されない。ここでは、芸術性を抽出するプロセスである。
6. 主観、客観関係性の成立
プロセス5で抽出された芸術性が、その志向性をさらに満たす為の段階が、次の条件として提示される。
そして、これらの対象間関係から、芸術性が、形而上的に展開され芸術となる契機となるプロセスである。
1.A(書き手/芸術性)とB(読み手/非芸術性)、
2.C(読み手/芸術性)とD(読み手/非芸術性)
3.介在する対象P(詩作、芸術性)
芸術性の成立の組み合わせ
比較条件:
(1)Aは、Bを否定し、Bは、Aを否定する。そして、Aは、Aを肯定し、BはBを肯定する。
(2)Aは、Pを肯定し、Bは、Pを否定する。そして、Aは、Bを否定し、BはAを否定する。
(3)Aは、Pを(肯定/芸術性)し、Bは、Pを(肯定/非芸術性)する。そして、Aは、Bを肯定(芸術性/非芸術性)し、BはAを肯定(芸術性/非芸術性)する。
2-3
(1)Bは、Cを否定し、Cは、Bを否定する。そして、Bは、Bを肯定し、CはCを肯定する。
(2)Bは、Pを肯定し、Cは、Pを否定する。そして、Bは、Cを否定し、CはBを否定する。
(3)Bは、Pを肯定(肯定/芸術性)し、Cは、Pを肯定(肯定/非芸術性)する。そして、Bは、Cを肯定(芸術性/非芸術性)し、BはCを肯定(芸術性/非芸術性)する。
これらの芸術性の成立の組み合わせを通じ、排他的関係提示という関係提示がプロセス上で行使される。
主観、客観関係性の成立段階では、上記の関係性はさらに進化し、芸術性が排他的な操作によってその芸術性を純化されて獲得する。その対象が、そこで獲得された芸術性に条件展開をさせることで、芸術性を純粋に認識していく。そして、この段階で、芸術性が形而上に表象化される。排他的な作用が、表象化を行使する。
ここまでのプロセスを纏めると、
1.主観
2-4.客観提示、主観/客観構築プロセス/芸術性の確立
5.主観/客観/排他性/芸術志向契機/芸術性の決定
6.介在対象上での主観/客観の確立及び
客観(主観客観の確立)/客観の志向-芸術志向契機
これらのプロセスを経過する事で、3.介在する対象P(詩作、芸術性)が、客観/客観関係上に関係性を構築する。つまり、ここでは、芸術への志向の二次的な契機を提示する。
なお、一次的な契機は、芸術性への志向である。
7. 芸術的な価値観の関係的構築決定、客観化
このプロセスでは、客観(主観客観の確立)/客観上における芸術性が、
非芸術性を排他する事で、芸術志向が芸術として確立するプロセスである。
それは、客観(主観客観の確立)/客観での芸術としての認識であり、以下の条件が、ここへは、排他されることで、形而上的に芸術性を芸術へと昇華し、芸術を純粋に確立するプロセスとなる。
その論理転換は、否定性を排除するという単純な方法である。
1.A(書き手/芸術性)とB(読み手/非芸術性)、
2.C(読み手/芸術性)とD(読み手/非芸術性)
3.介在する対象P(詩作、芸術性)
芸術性の成立の組み合わせ
比較条件:
(1)Aは、Bを否定し、Bは、Aを否定する。そして、Aは、Aを肯定し、BはBを肯定する。
(2)Aは、Pを肯定し、Bは、Pを否定する。そして、Aは、Bを否定し、BはAを否定する。
(3)(志向条件)Aは、Pを(肯定/芸術性)し、Bは、Pを(肯定/非芸術性)する。そして、Aは、Bを肯定(芸術性/非芸術性)し、BはAを肯定(芸術性/非芸術性)する。
2-3
(1)Cは、Dを否定し、Dは、Cを否定する。そして、Cは、Cを肯定し、DはDを肯定する。
(2)Cは、Pを肯定し、Dは、Pを否定する。そして、Cは、Dを否定し、DはCを否定する。
(3)(志向条件)Cは、Pを肯定(肯定/芸術性)し、Dは、Pを肯定(肯定/非芸術性)する。そして、Cは、Dを肯定(芸術性/非芸術性)し、CはDを肯定(芸術性/非芸術性)する。
という比較条件から、否定性(非芸術性)を排除する事で、以下の関係性を構築するプロセスである。詩作が芸術性を認知しているという事で、芸術性に正当性を付与するという事である。
これが排除操作であり、
1.A(書き手/芸術性)とB(読み手/非芸術性)、
2.C(読み手/芸術性)とD(読み手/非芸術性)
3.介在する対象P(詩作、芸術性)
次のプロセスで芸術性の成立の組み合わせを以下の通り、排他後に抽出する。
比較条件:
(1)Aは、Aを肯定する。(芸術性)
(2)Aは、Pを肯定する。(芸術性)
2-3
(1)Cは、Cを肯定する。
(2)Cは、Pを肯定する。
芸術性の否定、非芸術性となる要素すべてを排除することで、芸術へと展開させるのがこのプロセスである。その為の志向条件そのものが排除され、芸術が成立する。
プロセス5の排除と異なるのは、主観客観上に芸術性を成立させている点であり、
主観上に介在する対象P(詩作)の芸術性を決定するのではなく、客観関係上で決定する点である。
否定対象がない段階、ここで、芸術性が、芸術へと変換され、確立される。
1.A(書き手)P(芸術)、
2.C(読み手)P(芸術)
3.介在する対象P(詩作、芸術)
つまり、A--C間でPは、芸術を成立させている。-
8. 芸術の社会的な受容性、客観的価値上における芸術性の価値、芸術の一般的な認知。
1.A(書き手/芸術)、
2.C(読み手/芸術)
3.介在する対象P(詩作、芸術)
芸術性を求める、志向するとは、そのものが芸術への志向の契機であり、プロセス上に顕現がなされる現象がこのプロセスでは、客観的な認知として展開される。主観、客観の遷移がプロセス上に反映されているという事である。
そして、芸術性を成立させるために、排他操作を伴って、形而上に芸術観念として昇華することで、芸術を確立する。このプロセスにおいては、以下の詩作対象が芸術性から変換された芸術として客観対象化され、対社会に受容志向を確立、不特定多数によって認知されることで、芸術の志向性が満たされることになる。芸術性の分析は、詩作に含まれる比喩などのレトリックというフォルマリズム的な観点ではなく、芸術性という対象に純粋な視点を置いた結果、芸術の社会的な受容性、客観的価値上における芸術性の価値、芸術の認知が行われる。
つまり、社会という客観現象上で、詩作対象が芸術として確立するというのが最後のプロセスとなる。
主観的な美的発心が、詩作になり、そして芸術性を成立、客観的な関係と操作を経た後で、芸術へと転換する。
私は、海を見た。
波の音が美しく感じた。
波が、悲しい音楽を奏でていた。
詩作品は、芸術性から芸術へと変換するプロセスの顕現ある。

2020年8月27日 東京