消えた笑い声

消えた笑い声

コロナウイルスが大流行して、街が一変した。
日本に緊急事態宣言が出され、東京から、笑い声が消えた。
自粛と言っていながら、春の日差しを目いっぱい輝かせる日曜日、川べりの公園は人で溢れていた。けれど、誰もが無口で、子供にさえ笑い声はなかった。
自分は大丈夫というのではなく、その光景に罹ってもいいという諦念がある気がしてならなかった。
その姿は粋の構造で九鬼周造が、日本の文化の根底にある諦念が、粋を創出させるという、文化的根底そのものである諦念を見るようだった。
しかし、その諦念はどうしても、コロナの大流行の配下では、粋には構造変換化されて、現前化されはしなかった。諦念は、虚無を創出するというセオリーしか見い出せなかった。
日差しが美しいと思う心、そういう感情は本当に必要なのか。ただ、光があって、光は闇に移り、夜になる。その定理だけがあって、そこに真実があるだけではないか。そうとしか考えられなかった。
そして、その定理に対して、人は無力であり続ける。例え、コロナを収束させたから、人は、自然の定理に打ち勝ったと考えるだろうか。コロナウイルスが流行し始めてから、私は、自然界のドキュメンタリーを見る事が多くなった。海の中、陸の上、空の上、それぞれの世界で、力が支配する自然界で、生き延びる方法、また、力が生き延びるための手段を知りえ生き延びる。人がコロナと戦うのは、自然界の定理に従っているから、生き延びる事が目的だからに過ぎない気がした。
諦念と生き残る事とは、二律排反する哲学的命題だと思う。諦念は自然の定理に対する人間の運命的な服従性、人間の力では変える事の出来ない運命の嘆きという感情そのものの気がする。そこに、生きなければならないという自然的、本能的定理が相反発する、根底性はそこにある気がした。
人の笑い声が消えた。
その代わり、東京の空気が綺麗になった。
今、人間の存在そのものが問われている気がする。
人間の存在は悪なのではないか。
笑う声が戻った時、真実を知る気がする。

未発表詩集「乖離」より
2020年4月23日 東京


消えた笑い声

コロナウイルスが大流行して、街が一変した。
日本に緊急事態宣言が出され、東京から、笑い声が消えた。
自粛と言っていながら、春の日差しを目いっぱい輝かせる日曜日、川べりの公園は人で溢れていた。けれど、誰もが無口で、子供にさえ笑い声はなかった。
自分は大丈夫というのではなく、その光景に罹ってもいいという諦念がある気がしてならなかった。
その姿は粋の構造で九鬼周造が、日本の文化の根底にある諦念が、粋を創出させるという、文化的根底そのものである諦念を見るようだった。
しかし、その諦念はどうしても、コロナの大流行の配下では、粋には構造変換化されて、現前化されはしなかった。諦念は、虚無を創出するというセオリーしか見い出せなかった。
日差しが美しいと思う心、そういう感情は本当に必要なのか。ただ、光があって、光は闇に移り、夜になる。その定理だけがあって、そこに真実があるだけではないか。そうとしか考えられなかった。
そして、その定理に対して、人は無力であり続ける。例え、コロナを収束させたから、人は、自然の定理に打ち勝ったと考えるだろうか。コロナウイルスが流行し始めてから、私は、自然界のドキュメンタリーを見る事が多くなった。海の中、陸の上、空の上、それぞれの世界で、力が支配する自然界で、生き延びる方法、また、力が生き延びるための手段を知りえ生き延びる。人がコロナと戦うのは、自然界の定理に従っているから、生き延びる事が目的だからに過ぎない気がした。
諦念と生き残る事とは、二律排反する哲学的命題だと思う。諦念は自然の定理に対する人間の運命的な服従性、人間の力では変える事の出来ない運命の嘆きという感情そのものの気がする。そこに、生きなければならないという自然的、本能的定理が相反発する、根底性はそこにある気がした。
人の笑い声が消えた。
その代わり、東京の空気が綺麗になった。
今、人間の存在そのものが問われている気がする。
人間の存在は悪なのではないか。
笑う声が戻った時、真実を知る気がする。

未発表詩集「乖離」より
2020年4月23日 東京

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