方法論としての文学、フォルマリズム批判

方法論としての文学、フォルマリズム批判

文学的対象変換において、表現が可能であるか、あるいは、可能ではないかというという試みと、コンテキスト上の表象化におけるプロセスに関しては、フォルマリズムでは、分析対象にはならない。
言い換えると、コンテキストは、既に表象化された完成形が前提となる。よって文学的創造を行使する対象における行使プロセスは、分析的な立場になりえない。フォルマリズムは、コンテキストとして完成された対象が、分析対象となるからである。
フォルマリズムでは、完成されたコンテキスト上の各要素に視点があり、かつ、各要素の統合性に分析的な目的を置いているため、文学的創造を行使する対象における方法に関しては、完全に欠落している。
欠落性の原因として考えられるのは、以下のとおりである。
1.  文学的創造を行使する対象におけるプロセス上の目的性
2.  文学的観念性の具現化の可能性、観念性の表象化推定
3.  コンテキスト対象それ自体の創造プロセスの目的
問題としては、これらの提示がないからであると考えられる。簡単に言えば、プロセスを経て、具現化されるか否かが、文学的創造を行使する対象における目的であるのを分析していないからである。
文学的創造を行使する対象におけるコンテキスト上プロセスとは、文学的創造を行使する対象が、言語化を開始した時点でプロセスが始まり、現在進行形という時間推移を伴い、最後の文法的な規則である、終端記号によって成立するものである。その為、文学的創造を行使する対象と創造された対象には、フォルマリズムでは、論理化されることがない関係性と時間的な対象間の推移性が創出されている、ただし、その要素は、完成されたコンテキスト上には、表象化しない、この点は、フォルマリズムでは踏み込めない領域である。
換言するなら、フォルマリズムは、コンテキストを受容する立場の見解であり、文学的創造を行使する対象におけるプロセスは含む事が出来ないという立場であるからである。
結果的になるが、フォルマリズムでは、それらの要素は、不可知であるとして省かれる、あるいは、その点は問題ではないとして扱わないという立場を貫く。
フォルマリズムが方法論を導く場合が可能であるならば、コンテキスト受容の成立上で、各要素分析が成立したと仮定し、かつ、創出された形式の配下にカテゴライズされた状況においてである。しかし、文学的創造を行使する対象と創造されてゆく対象において、方法は、形式の配下にカテゴライズされてゆくであろうか。
形式論的考察は、文学の本質に迫りうるのであろうか。
観念性の文学的対象置換において、表現が可能であるか、あるいは、可能ではないかというという試みは、プロセスを省いていながら提示可能なのであろうか。
その点を考察する為に、条件として、提示するコンテキストは完成形ではない、終端記号によって成立していないプロセス上における、「一人称」と「三人称」の使用に関して、例として論述を進めたい。
一人称を使用するか、あるいは、三人称を使用するかは、文学的創造を行使する対象においては、言語化を開始した時点で決定がなされる、あるいは、終端記号のないプロセス上でどこかいずれかの言語表象化で決定がなされる。その決定に関して、どのような要素が現前化し、また、人称の提示によって操作されるだろうか。
一人称を使用する場合、文学的創造を行使する対象は、人称の効果によって、コンテキスト上の人物と同一化が図られる。ただし、私という存在がアイデンティティとして意識された場合である。それは、アイデンティティ化された、コンテキスト上の人物と文学的創造を行使する対象の距離感が、限りなく近い立場であるか、コンテキスト上の人物と文学的創造を行使する対象が同一である場合に一人称となる。述べるまでもないが、告白形態の立場である。
一方、文学的創造を行使する対象が三人称を用いて、プロセスを遂行する場合、文学的創造を行使する対象は、コンテキスト上の人物とは、距離を持つ、あるいは、同一ではない場合に使用する。ただし、コンテキスト上の人物が絶対者であるとか、オムニポテントという解釈は、必要はない。何故ならば文学的創造を行使する対象においては、文学的観念性の具現化が目的である為、時間的推移上、独立した方法論として提示されてゆくからである。言い換えれば、この点が文学的創造を行使する対象とコンテキストのプロセス上の関係である。
一人称を使用して効果を生み出す、あるいは三人称によって世界観を構築したというのは、結果論であり、文学的観念性の具現化の遂行という、文学的創造を行使する対象の目的性には及ばない。
最もシンプルに表現するならば、「私が表現したいものをどうやって表現するか、出来るのか。」が判断基準となる。そこに、一人称と三人称の使い分けが必然化されているだけである。
少し人称から論述が逸れるが、一人称と三人称のそのどちらかによって創造されてゆくプロセス、文学的構造化プロセスにおいて、言語構造の選択もコンテキスト表象に影響し得る。しかし、フォルマリズムは、言語構造の文学的影響は問題にはしない、つまり、言語構造は一基準としてでしか捉えない、また、時間構造の意識性も完成されたという時間制でしか提示をしない、何故ならば、コンテキストは、終端記号によって決定されているからである。
文学的創造を行使する対象が対象具現化の為に、使用する言語構造を意識することで、言語の選択をし、かつ、言語構造に適切な一人称と三人称を使い分けるならば、それは、形式の範疇ではない。また、構造化というプロセスがあるならば、時間的推移性からの脱却はありえない。つまり、構造化された文学ではないという事である。
フォルマリズムの問題点は、形式で文学を解釈するが、実際はコンテキストを完成された構造として解釈していることである。先ほども述べたが、終端記号が存在するからである。文学的創造を行使する対象におけるコンテキストは、終端記号が振られるまでは、プロセスとして、未構造化として振舞われる。そこには、言語関係があり、人称関係がある。
それは、いつまでに終端記号を振ることは出来るのかという目的性である。
ただし、その要素をプロセスとして提示しうるのは、文学的創造を行使する対象のみであるという点が、フォルマリズムとの相克となる。その為、文学的創造を行使する対象は、形式ではなく、方法としての一人称と三人称の選択が提示される。
文学は、書かれたものでなく、書いてゆくものである。
その具現化にフォルマリズムでは対応が出来ない、真実がある。
方法の選択、それが文学的構築である。
 
注:この論述が日本語で書かれたのは、言語構造の相違性を意識させるためである。
 
2020年5月9日 東京
大橋 宏

方法論としての文学、フォルマリズム批判

文学的対象変換において、表現が可能であるか、あるいは、可能ではないかというという試みと、コンテキスト上の表象化におけるプロセスに関しては、フォルマリズムでは、分析対象にはならない。
言い換えると、コンテキストは、既に表象化された完成形が前提となる。よって文学的創造を行使する対象における行使プロセスは、分析的な立場になりえない。フォルマリズムは、コンテキストとして完成された対象が、分析対象となるからである。
フォルマリズムでは、完成されたコンテキスト上の各要素に視点があり、かつ、各要素の統合性に分析的な目的を置いているため、文学的創造を行使する対象における方法に関しては、完全に欠落している。
欠落性の原因として考えられるのは、以下のとおりである。
1.  文学的創造を行使する対象における目的性
2.  文学的観念性の具現化の可能性、観念性の表象化推定
3.  コンテキスト対象それ自体の創造プロセスの目的
これらの提示がないからであると考えられる。簡単に言えば、プロセスを経て、具現化されるか否かが、文学的創造を行使する対象における目的であるのを分析していないからである。
文学的創造を行使する対象におけるコンテキスト上プロセスとは、文学的創造を行使する対象が、言語化を開始した時点でプロセスが始まり、現在進行形という時間推移を伴い、最後の文法的な規則である、終端記号によって成立するものである。その為、文学的創造を行使する対象と創造された対象には、フォルマリズムでは、論理化されることがない関係性と時間的な対象間の推移性が創出されている、ただし、その要素は、完成されたコンテキスト上には、表象化しない、この点は、フォルマリズムでは踏み込めない領域である。
換言するなら、フォルマリズムは、コンテキストを受容する立場の見解であり、文学的創造を行使する対象におけるプロセスは含む事が出来ないという立場であるからである。
結果的になるがフォルマリズムでは、それらの要素は、不可知であるとして省かれる、あるいは、その点は問題ではないとして扱わないという立場を貫く。
フォルマリズムが方法論を導く場合が可能であるならば、コンテキスト受容の成立上で、各要素分析が成立したと仮定し、かつ、創出された形式の配下にカテゴライズされた状況においてである。しかし、文学的創造を行使する対象と創造されてゆく対象において、方法は、形式の配下にカテゴライズされてゆくであろうか。
形式論的考察は、文学の本質に迫りうるのであろうか。
観念性の文学的対象置換において、表現が可能であるか、あるいは、可能ではないかというという試みは、プロセスを省いていながら提示可能なのであろうか。
その点を考察する為に、条件として、提示するコンテキストは完成形ではない、終端記号によって成立していないプロセス上における、「一人称」と「三人称」の使用に関して、例として論述を進めたい。
一人称を使用するか、あるいは、三人称を使用するかは、文学的創造を行使する対象においては、言語化を開始した時点で決定がなされる、あるいは、終端記号のないプロセス上でどこかいずれかの言語表象化で決定がなされる。その決定に関して、どのような要素が現前化し、また、人称の提示によって操作されるだろうか。
一人称を使用する場合、文学的創造を行使する対象は、人称の効果によって、コンテキスト上の人物と同一化が図られる。ただし、私という存在がアイデンティティとして意識された場合である。それは、アイデンティティ化された、コンテキスト上の人物と文学的創造を行使する対象の距離感が、限りなく近い立場であるか、コンテキスト上の人物と文学的創造を行使する対象が同一である場合に一人称となる。述べるまでもないが、告白形態の立場である。
一方、文学的創造を行使する対象が三人称を用いて、プロセスを遂行する場合、文学的創造を行使する対象は、コンテキスト上の人物とは、距離を持つ、あるいは、同一ではない場合に使用する。ただし、コンテキスト上の人物が絶対者であるとか、オムニポテントという解釈は、必要はない。何故ならば文学的創造を行使する対象においては、文学的観念性の具現化が目的である為、時間的推移上、独立した方法論として提示されてゆくからである。言い換えれば、この点が文学的創造を行使する対象とコンテキストのプロセス上の関係である。
一人称を使用して効果を生み出す、あるいは三人称によって世界観を構築したというのは、結果論であり、文学的観念性の具現化の遂行という、文学的創造を行使する対象の目的性には及ばない。
最もシンプルに表現するならば、「私が表現したいものをどうやって表現するか、出来るのか。」が判断基準となる。そこに、一人称と三人称の使い分けが必然化されているだけである。
少し人称から論述が逸れるが、一人称と三人称のそのどちらかによって創造されてゆくプロセス、文学的構造化プロセスにおいて、言語構造の選択もコンテキスト表象に影響し得る。しかし、フォルマリズムは、言語構造の文学的影響は問題にはしない、つまり、言語構造は一基準としてでしか捉えない、また、時間構造の意識性も完成されたという時間制でしか提示をしない、何故ならば、コンテキストは、終端記号によって決定されているからである。
文学的創造を行使する対象が対象具現化の為に、使用する言語構造を意識することで、言語の選択をし、かつ、言語構造に適切な一人称と三人称を使い分けるならば、それは、形式の範疇ではない。また、構造化というプロセスがあるならば、時間的推移性からの脱却はありえない。つまり、構造化された文学ではないという事である。
フォルマリズムの問題点は、形式で文学を解釈するが、実際はコンテキストを完成された構造として解釈していることである。先ほども述べたが、終端記号が存在するからである。文学的創造を行使する対象におけるコンテキストは、終端記号が振られるまでは、プロセスとして、未構造化として振舞われる。そこには、言語関係があり、人称関係がある。
それは、いつまでに終端記号を振ることは出来るのかという目的性である。
ただし、その要素をプロセスとして提示しうるのは、文学的創造を行使する対象のみであるという点が、フォルマリズムとの相克となる。その為、文学的創造を行使する対象は、形式ではなく、方法としての一人称と三人称の選択が提示される。
文学は、書かれたものでなく、書いてゆくものである。
その具現化にフォルマリズムでは対応が出来ない、真実がある。
方法の選択、それが文学的構築である。
 
注:この論述が日本語で書かれたのは、言語構造の相違性を意識させるためである。
 
2020年5月9日 東京
大橋 宏