八丈島

八丈島

北国から雪の便りが届き続ける真冬に、三宅島から八丈島に渡ろうとするヨットは見た事はなかった。
早い黒潮の流れが、そして高い波が、小さな船の航行を阻むからだと思う。
夏でさえ、八丈島に渡ってゆくヨットを見たのは一度だけだった。
その日は、穏やかで、波のない夏の群青色の海原、手漕ぎボートでさえ渡って行けるような海の姿だった。
冬とは対極的な夏の海域は、嘘をついているのに平然としている、そんな印象さえを持たせた。
それは、あの海域が、一年を通じてどのように流れを変え、波の形を変え、海の姿を見せるのかを物語っているからだった。
八丈島歴史民俗資料館で、縄文時代の人が夏、ウリ坊まで乗せて木の船で渡っていたことを知った。
目を見張るような小さな舟で渡っていた事を知った時、航海技術云々は二の次のような気がした。
技術的な確立や、効率を突き詰めたマニュアルが先行する時代に、歴史は全く違う側面を伝えていた。
そしてまた、交通手段の長い歴史は、未来を解き明かす真実がある事を伝えていた気がした。
あの時から振り返ると、コロナ禍に喘いでいた時も、あの時と同じように様々な疑問を投げかけていた気がした。
八丈島に向かう時、そして八丈島で触れた歴史、あの島で聞いた音、感じた光さえもが、実は未来を暗示していたように思えた。
それは、コロナ禍では未来が見えなかったのに、それが突然迷妄というトンネルを抜け、それまでとは異なる世界が目の前に広がっていたから、そう感じたのだと確信した。
コロナ禍において、インターネットを通じて映し出される光景は、どの国の人も、どの民族もマスクをし、さらに渡航を制限し、封鎖をしていた。
あの時、世界中のあらゆる街は死んでいた。ある意味ですべての価値観が統一化されているような姿だった。
そして、そこまで統一化された世界は、まさに未知の体験だった。
コロナは、既存の全てをまるで嘲笑うかのように無力化していた。
あれから、今、まさにポストコロナだ。時代はこれから先どこに行くのか、何を求めてゆくのか。
時代は、新しく動き始めた。
ポストコロナにおいて、マスクをしていた全ての人々は、既に新しい時代、新しい世界に生き始めている。
新しい考えの元で時間が刻まれている。
ただし、今までと顕著に異なるのは、変革のスピードが恐ろしい位に早いという事だ。
対応するスピードが速く、スピードそのものがそれまでの既存を淘汰してゆく感じさえする気がしてならない。
あの頃、八丈島に渡る船の上で見た様々な四季を映す波が、過去と現在、現在と未来とリンクさせて、真実を伝えていたのだと今になって嚙みしめた。
ただし、例えどんなに新しい時代が来ても、縄文時代の人が夏、ウリ坊まで乗せて木の船で八丈島に渡っていた歴史的事実は変えられることはない。
真実は、コロナ前、コロナ後であっても、例え新しい時代になってもその姿の本質を変える事もなく、変える事も出来ずに真実であり続けるだけだ。そう信じているのに、新しい時代は、その真実をも越えようとしている。
不確実性が未来ならば、その価値観によって既に世界は統一化されている。
コロナによって統一されている姿が現れ、そして継続的な統一化が未来に通じた。
何故なら、それが新しい到来を意味しているからだ。
ただ、未来への答えは簡単だ。不確実性に、確実性を生む変換を付与すれば淘汰から逃れるうる手段になるだけだ。コロナ禍では全く見えなかった物が形になって来た。
だから、真実を再認識する事が出来た。
コロナは来るべくして来た、そんな思いまでして来るようになった。

2023年8月30日 東京

八丈島

北国から雪の便りが届き続ける真冬に、三宅島から八丈島に渡ろうとするヨットは見た事はなかった。
早い黒潮の流れが、そして高い波が、小さな船の航行を阻むからだと思う。
夏でさえ、八丈島に渡ってゆくヨットを見たのは一度だけだった。
その日は、穏やかで、波のない夏の群青色の海原、手漕ぎボートでさえ渡って行けるような海の姿だった。
冬とは対極的な夏の海域は、嘘をついているのに平然としている、そんな印象さえを持たせた。
それは、あの海域が、一年を通じてどのように流れを変え、波の形を変え、海の姿を見せるのかを物語っているからだった。
八丈島歴史民俗資料館で、縄文時代の人が夏、ウリ坊まで乗せて木の船で渡っていたことを知った。
目を見張るような小さな舟で渡っていた事を知った時、航海技術云々は二の次のような気がした。
技術的な確立や、効率を突き詰めたマニュアルが先行する時代に、歴史は全く違う側面を伝えていた。
そしてまた、交通手段の長い歴史は、未来を解き明かす真実がある事を伝えていた気がした。
あの時から振り返ると、コロナ禍に喘いでいた時も、あの時と同じように様々な疑問を投げかけていた気がした。
八丈島に向かう時、そして八丈島で触れた歴史、あの島で聞いた音、感じた光さえもが、実は未来を暗示していたように思えた。
それは、コロナ禍では未来が見えなかったのに、それが突然迷妄というトンネルを抜け、それまでとは異なる世界が目の前に広がっていたから、そう感じたのだと確信した。
コロナ禍において、インターネットを通じて映し出される光景は、どの国の人も、どの民族もマスクをし、さらに渡航を制限し、封鎖をしていた。
あの時、世界中のあらゆる街は死んでいた。ある意味ですべての価値観が統一化されているような姿だった。
そして、そこまで統一化された世界は、まさに未知の体験だった。
コロナは、既存の全てをまるで嘲笑うかのように無力化していた。
あれから、今、まさにポストコロナだ。時代はこれから先どこに行くのか、何を求めてゆくのか。
時代は、新しく動き始めた。
ポストコロナにおいて、マスクをしていた全ての人々は、既に新しい時代、新しい世界に生き始めている。
新しい考えの元で時間が刻まれている。
ただし、今までと顕著に異なるのは、変革のスピードが恐ろしい位に早いという事だ。
対応するスピードが速く、スピードそのものがそれまでの既存を淘汰してゆく感じさえする気がしてならない。
あの頃、八丈島に渡る船の上で見た様々な四季を映す波が、過去と現在、現在と未来とリンクさせて、真実を伝えていたのだと今になって嚙みしめた。
ただし、例えどんなに新しい時代が来ても、縄文時代の人が夏、ウリ坊まで乗せて木の船で八丈島に渡っていた歴史的事実は変えられることはない。
真実は、コロナ前、コロナ後であっても、例え新しい時代になってもその姿の本質を変える事もなく、変える事も出来ずに真実であり続けるだけだ。そう信じているのに、新しい時代は、その真実をも越えようとしている。
不確実性が未来ならば、その価値観によって既に世界は統一化されている。
コロナによって統一されている姿が現れ、そして継続的な統一化が未来に通じた。
何故なら、それが新しい到来を意味しているからだ。
ただ、未来への答えは簡単だ。不確実性に、確実性を生む変換を付与すれば淘汰から逃れるうる手段になるだけだ。コロナ禍では全く見えなかった物が形になって来た。
だから、真実を再認識する事が出来た。
コロナは来るべくして来た、そんな思いまでして来るようになった。

2023年8月30日 東京






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