主観的関係

主観的関係

影は光を追わない。
けれど、光は影を追う。

主観と時間は、そのような関係であり続け、主観的存在はそこに関係を構築する。

私が私を思ったとしても、あるいは、あなたがあなたを思わなくても、主観性と時間の関係は変わらない。
時間と主観において、過去の主観と現在の主観が異なるのなら、主観性は時間に依存する。
つまり、時間との関係性に存在が表象される。
主観が存在を意識するそのアプリオリにおいても、主観は、時間と関係性が成立していて、例え主観的に存在を意識しなくても、主観と時間の関係性が成立しているなら、主観は関係的に存在しているという事になる。

山の中を貫くトンネル、その中の光と影の羅列が主観上に現れる時間の塊に見えた。等間隔の区切りが、時間を認識する自分に見え、向こうに見える光に向かい、一歩一歩、歩を歩める事が、主観が時間的継続性上にあるその姿そのもののように見えた。
トンネルの中、一区切りが光になり、一区切りが影となったそれは、時間の悪戯にしか思えなかった。
その空間は、主観と時間の関係性に似ていると思った。
浜松、鳥羽山トンネルの中で、降りしきる雨から逃れた。
トンネルに入る前も、トンネルを抜ける向こう側でも、雨は降り続けていた。
裏浜名湖に近い、山々の迫る歩道で、私が追求してきた哲学に出会った。

時間は、主観性を追わない。
けれど、主観性は、時間を追う。
それは、
影は光を追わない。
けれど、光は影を追う。
そういう関係と同じだ。

2024年1月10日 東京

主観的関係

影は光を追わない。
けれど、光は影を追う。

主観と時間は、そのような関係であり続け、主観的存在はそこに関係を構築する。

私が私を思ったとしても、あるいは、あなたがあなたを思わなくても、主観性と時間の関係は変わらない。
時間と主観において、過去の主観と現在の主観が異なるのなら、主観性は時間に依存する。
つまり、時間との関係性に存在が表象される。
主観が存在を意識するそのアプリオリにおいても、主観は、時間と関係性が成立していて、例え主観的に存在を意識しなくても、主観と時間の関係性が成立しているなら、主観は関係的に存在しているという事になる。

山の中を貫くトンネル、その中の光と影の羅列が主観上に現れる時間の塊に見えた。等間隔の区切りが、時間を認識する自分に見え、向こうに見える光に向かい、一歩一歩、歩を歩める事が、主観が時間的継続性上にあるその姿そのもののように見えた。
トンネルの中、一区切りが光になり、一区切りが影となったそれは、時間の悪戯にしか思えなかった。
その空間は、主観と時間の関係性に似ていると思った。
浜松、鳥羽山トンネルの中で、降りしきる雨から逃れた。
トンネルに入る前も、トンネルを抜ける向こう側でも、雨は降り続けていた。
裏浜名湖に近い、山々の迫る歩道で、私が追求してきた哲学に出会った。

時間は、主観性を追わない。
けれど、主観性は、時間を追う。
それは、
影は光を追わない。
けれど、光は影を追う。
そういう関係と同じだ。

2024年1月10日 東京