あの夏から、そして冬へ

あの夏から、そして冬へ

 まだ、コロナなんて知らなかった、あの夏の盛り。
太平洋側には台風が訪れるので、警戒が必要だと天気予報は盛んに伝えていた。
鎌倉で海を見た。風は穏やかそうに見えた。けれど、小さなうねりがあって、遠くの方は所々で白波を立てていた。高い所の雲の流れが、早かった。台風が近づいているとすべてが伝えていた。その姿に、嘘はなかった。
翌日、日本海側の街に旅立った。台風が訪れる前の日本海が見れると思った。海は、嘘はつかないと信じていた。真冬、一か月間近く過ごした糸魚川に何十年か振りにたどり着いた。海に近づいたが、流れる雲に早さはなかった。雲の高い所にさえ、台風が訪れる前の兆候はなかった。日本海を見た。白波もない、穏やかな夏の日そのものの姿だった。「嘘だろ」と心の中で思った。そんなに違うのかとさえ目を疑った。本州に連なる山脈の影響を思い知らされた瞬間だった。様々な要因が複雑に絡み合って、海はその姿を呈するのだと、改めて教わった。

肯定と否定が同時に存在する、ある一つの対象の存在は可能か。
仮想が実体的に変換される移行性において、内部的なねじれを肯定と否定が対象関係を持った時に、それは可能になる。つまり、時間が対象関係として、対象外に創出され、それぞれが関係的に成立するという場合にである。その為、移行上に、肯定と否定が同時に存在し、そこからある一つの対象が生み出されるならば、肯定と否定が同時に存在する、一つの対象の存在は可能になる。
例え、物理的に時間は存在しないのだと証明されたとしても、そのねじれの否定にはならない。
何故ならば、現象上、対象Aの変移を段階的に対象化した際の差異、対象Aー対象A⁺は、否定は出来ない。つまり認識上は、変移移行現象がある限り、現象として成立しているからである。言い換えるなら、時間がないという事により、それが時間として定義出来ないなら、変移移行現象に成立する関係対象をXと定義しなおせば、時間的推移性は、再定義する事は可能である。時間がないというなら、一例として、人が生まれました。そして死にました。生まれたという対象と、死にましたという対象。そして、ある人物という対象。その移行関係性が成立しない事になる。生と死は、同じ対象なのだろうか。現象的に、そして意味論的にも、認識論的にも、矛盾が生じる。それを回避するために、移行関係性と定義すれば、対象差異間は、関係を保持する事が出来る。
もう少し、深めると時間がないというなら、対象Xが、対象Aから対象A+に移行する移行関係を対象化すれば、時間という単語を使用しないでも、現象的にその関係提示する事は可能である。
だから、その点はそれほど重要な事ではない。時間が存在しようがしまいは問題ではなく、推移移行性が関係対象化された時が、問題であり重要になるだけである。

肯定と否定が同時に存在する、ある一つの対象の存在は可能か。
荒れる冬の日本海を見つめながら、あの夏の日を思い出した。
日本海側に低気圧が停滞し、様々な交通機関に影響が出た。そんな日に五能線に乗った。
どこかに時間のねじれがあって、ある対象が仮想から実体を持つ。
太平洋から日本海へ、そして夏から冬へ。
荒れる海を前に、あの時とつながった。

2021年12月27日 盛岡

あの夏から、そして冬へ

 まだ、コロナなんて知らなかった、あの夏の盛り。
太平洋側には台風が訪れるので、警戒が必要だと天気予報は盛んに伝えていた。
鎌倉で海を見た。風は穏やかそうに見えた。けれど、小さなうねりがあって、遠くの方は所々で白波を立てていた。高い所の雲の流れが、早かった。台風が近づいているとすべてが伝えていた。その姿に、嘘はなかった。
翌日、日本海側の街に旅立った。台風が訪れる前の日本海が見れると思った。海は、嘘はつかないと信じていた。真冬、一か月間近く過ごした糸魚川に何十年か振りにたどり着いた。海に近づいたが、流れる雲に早さはなかった。雲の高い所にさえ、台風が訪れる前の兆候はなかった。日本海を見た。白波もない、穏やかな夏の日そのものの姿だった。「嘘だろ」と心の中で思った。そんなに違うのかとさえ目を疑った。本州に連なる山脈の影響を思い知らされた瞬間だった。様々な要因が複雑に絡み合って、海はその姿を呈するのだと、改めて教わった。

肯定と否定が同時に存在する、ある一つの対象の存在は可能か。
仮想が実体的に変換される移行性において、内部的なねじれを肯定と否定が対象関係を持った時に、それは可能になる。つまり、時間が対象関係として、対象外に創出され、それぞれが関係的に成立するという場合にである。その為、移行上に、肯定と否定が同時に存在し、そこからある一つの対象が生み出されるならば、肯定と否定が同時に存在する、一つの対象の存在は可能になる。
例え、物理的に時間は存在しないのだと証明されたとしても、そのねじれの否定にはならない。
何故ならば、現象上、対象Aの変移を段階的に対象化した際の差異、対象Aー対象A⁺は、否定は出来ない。つまり認識上は、変移移行現象がある限り、現象として成立しているからである。言い換えるなら、時間がないという事により、それが時間として定義出来ないなら、変移移行現象に成立する関係対象をXと定義しなおせば、時間的推移性は、再定義する事は可能である。時間がないというなら、一例として、人が生まれました。そして死にました。生まれたという対象と、死にましたという対象。そして、ある人物という対象。その移行関係性が成立しない事になる。生と死は、同じ対象なのだろうか。現象的に、そして意味論的にも、認識論的にも、矛盾が生じる。それを回避するために、移行関係性と定義すれば、対象差異間は、関係を保持する事が出来る。
もう少し、深めると時間がないというなら、対象Xが、対象Aから対象A+に移行する移行関係を対象化すれば、時間という単語を使用しないでも、現象的にその関係提示する事は可能である。
だから、その点はそれほど重要な事ではない。時間が存在しようがしまいは問題ではなく、推移移行性が関係対象化された時が、問題であり重要になるだけである。

肯定と否定が同時に存在する、ある一つの対象の存在は可能か。
荒れる冬の日本海を見つめながら、あの夏の日を思い出した。
日本海側に低気圧が停滞し、様々な交通機関に影響が出た。そんな日に五能線に乗った。
どこかに時間のねじれがあって、ある対象が仮想から実体を持つ。
太平洋から日本海へ、そして夏から冬へ。
荒れる海を前に、あの時とつながった。

2021年12月27日 盛岡

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