倉敷

倉敷

倉敷は、うつろう影と戯れる光のように美しい。

流れゆく川を見つめながら、美の中に生成される歴史的継続の現象が現在であると私は考えた。
もし、美という真実が本当に存在するなら、その街には間違いなく真実がある気がした。
それがたとえ幻想でも構わない、それが虚構でも構わない、その真実に触れることさえ出来る一瞬がある、と気に留めるだけでも良いと思った。
倉敷に映り込む美は、形式立てられた孤高の美ではなく、誰でも受け入れてくれる受容する美、日本の美そのものであった。
あの夏の日、倉敷への旅の目的である、大原美術館へ立ち寄った。収集をした当時の美術的見識への高さには、目を見張るものがあった。
お金を出せば何でも買えるという発想ではない、児島虎次郎を通してとはいえ、その当時、コレクターとして芸術の本質を見抜く慧眼に感嘆した。それは、東洋の美術品に対しても全く同じレベルであると思えた。
西洋絵画展示の最後、エル グレコの絵が飾ってあった。
絵の前で、ふと、マドリードに住むスペイン人の美術商を営む友達と、東京の国立博物館で会話を思い出した。
「プラド美術館の、ゴヤの作品が贋作だったとかよく話題になるけど、本当にどの位、贋作があるのだろうね。」
と私は聞いた。
すると、
「昔のことだから、本当に分からないし、あんなにコレクションがあったら、それは、あっても仕方ないわ。調べようがない場合だってあるわ。」
とあっさりと答えた。
「確かに。」
と言って私は笑い、
「贋作を本物と信じて見ている場合もあるという事だね。」
と告げると、
「そうね。あるかもね、もしかしたら沢山。」
と彼女も笑った。
あの日、もしかすると、美術に対する評価は、自分の目だけが正しいのではないかとさえ感じずにはいられなかった。
ピカソの絵でさえ、似たような作風の誰か別の人の絵に、ピカソ自身のサインをして、これは私の絵ですと言って世間に出したら、一体、何人が見抜けるのか。美術に触れる時は必ず疑いの目を持って見ることが必要なのではないかと、私は、国立博物館で痛感した。
東京から遠く離れた大原美術館では、どこか別の世界に紛れ込んでいた気がした。
あの時旅先で、芸術に触れ、心が洗われるような心境になった。
美という現象の本質は、様々な角度から検証しなければならない、そう肝に銘じた。
巡りくる感情と共に、川筋から離れた、模様が美しい建物の角を曲がった時、どこからともなく古いバイオリンの音が聞こえて来た。
そして、あの時、スペインのどこか小さな街に紛れ込んだ気がした。スペイン語が聞こえて来る錯覚に囚われた。
自分という積み重なった継続のすべての現象が、現在であると確かめた時、私は倉敷の川のほとりに歩みを進めていた。
夏の暑い日差しの中、美しい街にいると改めて実感した。
倉敷への旅行からそろそろ、一か月。今、台湾の故宮博物館か、倉敷か、そのどちらに行きたいか?
もしそう問われたら、倉敷かなと答えてしまう気がした。
それは、歴史的継続における現象自体が、現在である事を確かめられる街だから。

2022年9月4日 東京

倉敷

倉敷は、うつろう影と戯れる光のように美しい。

流れゆく川を見つめながら、美の中に生成される歴史的継続の現象が現在であると私は考えた。
もし、美という真実が本当に存在するなら、その街には間違いなく真実がある気がした。
それがたとえ幻想でも構わない、それが虚構でも構わない、その真実に触れることさえ出来る一瞬がある、と気に留めるだけでも良いと思った。
倉敷に映り込む美は、形式立てられた孤高の美ではなく、誰でも受け入れてくれる受容する美、日本の美そのものであった。
あの夏の日、倉敷への旅の目的である、大原美術館へ立ち寄った。収集をした当時の美術的見識への高さには、目を見張るものがあった。
お金を出せば何でも買えるという発想ではない、児島虎次郎を通してとはいえ、その当時、コレクターとして芸術の本質を見抜く慧眼に感嘆した。それは、東洋の美術品に対しても全く同じレベルであると思えた。
西洋絵画展示の最後、エル グレコの絵が飾ってあった。
絵の前で、ふと、マドリードに住むスペイン人の美術商を営む友達と、東京の国立博物館で会話を思い出した。
「プラド美術館の、ゴヤの作品が贋作だったとかよく話題になるけど、本当にどの位、贋作があるのだろうね。」
と私は聞いた。
すると、
「昔のことだから、本当に分からないし、あんなにコレクションがあったら、それは、あっても仕方ないわ。調べようがない場合だってあるわ。」
とあっさりと答えた。
「確かに。」
と言って私は笑い、
「贋作を本物と信じて見ている場合もあるという事だね。」
と告げると、
「そうね。あるかもね、もしかしたら沢山。」
と彼女も笑った。
あの日、もしかすると、美術に対する評価は、自分の目だけが正しいのではないかとさえ感じずにはいられなかった。
ピカソの絵でさえ、似たような作風の誰か別の人の絵に、ピカソ自身のサインをして、これは私の絵ですと言って世間に出したら、一体、何人が見抜けるのか。美術に触れる時は必ず疑いの目を持って見ることが必要なのではないかと、私は、国立博物館で痛感した。
東京から遠く離れた大原美術館では、どこか別の世界に紛れ込んでいた気がした。
あの時旅先で、芸術に触れ、心が洗われるような心境になった。
美という現象の本質は、様々な角度から検証しなければならない、そう肝に銘じた。
巡りくる感情と共に、川筋から離れた、模様が美しい建物の角を曲がった時、どこからともなく古いバイオリンの音が聞こえて来た。
そして、あの時、スペインのどこか小さな街に紛れ込んだ気がした。スペイン語が聞こえて来る錯覚に囚われた。
自分という積み重なった継続のすべての現象が、現在であると確かめた時、私は倉敷の川のほとりに歩みを進めていた。
夏の暑い日差しの中、美しい街にいると改めて実感した。
倉敷への旅行からそろそろ、一か月。今、台湾の故宮博物館か、倉敷か、そのどちらに行きたいか?
もしそう問われたら、倉敷かなと答えてしまう気がした。
それは、歴史的継続における現象自体が、現在である事を確かめられる街だから。

2022年9月4日 東京


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