ダイナミックとスタティックの伝達の問題

ダイナミックとスタティックの問題
The Conference EDUNOVATIC 2020
スペイン語論文
Problemas de dinámica y estática
日本語オリジナル

ダイナミックとスタティックの伝達の問題

¿Qué es la nada para ti?  (あなたにとって、無とは何ですか?)
この質問は、私が、20数年前にカタラン人の中学生から、バルセロナでイエズス会士と出席したとある集まりの中で受けた質問である。
私は、哲学的、宗教的、あるいは、芸術的には、その扱いは東洋と西洋は根本的に異なるという趣旨と共に、Nada(無)に関する答えをした。それが、幼い彼に果たして本当に理解されたかは定かではないが、あの時見た、彼の目の輝きは、その本質を理解してくれたのだと今でも信じている。これから述べるダイナミックとスタティックの伝達の問題は、その時に私が、直面した両世界の関係性を伝達するという経験が出発点になっている。

ダイナミックとスタティックの伝達の問題
この論文の目的は、マクロ的視点、及びミクロ的視点から現象を分析し、分析課題を文学上におけるダイナミックとスタティックの現象に対象化し、異文化、異世界間に伝達する事とは、そして追随する問題を提示し、ダイナミックとスタティックをマクロ的に、ミクロ的に伝えることは、本当に可能か、また、教育的視点で本当に可能であるのかを論述である。
論理的に成立するために、最初に現前化している東洋と西洋のダイナミックとスタティックの異現象をマクロ的、ミクロ的にどのように解釈されるべきから始める。
マクロ的視点の現象例示としては、東洋思想を含む、いわゆる東洋の宗教と言われている、三大宗教、ヒンドゥー教、仏教、道教がある。これらに関しては、一概には同一視されない、また、それらを同一として捉えることは、分析上乱暴な方法になるのを理解した上で、徹底的な視点として、東洋性を顕著化し道教を対象として提示する。これは、マクロ的な比較上、主観‐客観の同一として、西洋と対極的な意味を持っているからである。つまり、同一性のうちにスタティックを内包するという立場で、ダイナミックをプセウド的に解釈するという立場を例示し、東洋的としてマクロ的な視点に主観‐客観の同一として適用する。
一方、西洋の思想から、ヘブライキリスト教、旧約聖書の神が光あれといった部分から、スタティックからダイナミックという遷移、そして、主観‐客観の分裂へのプロセスを提示しマクロ的な例示とする。
そして、東洋と西洋におけるダイナミックとスタティックのサンプルは、主観‐客観の同一か、分裂かを提示し論述を進める。このサンプルの提示は、鈴木大拙が行った未分化後と未分化以前というサンプルと同じ方法をとる。しかしながら、未分化後と未分化以前という立場は本論文ではとらず、ダイナミックとスタティック自体、主観‐客観の同一か、分裂そのものが異質となる立場を明確にする。それは、未分化以前、以後は、東洋と西洋は根本的に異なるという立場である。換言すると、東洋と西洋のダイナミックとスタティックは、比較対象化した時点から、マクロ的な視点の認識として根本的に異なるという立場である。神が光あれという前の世界と後の世界は、東洋が扱っている未分化という立場ではなく、両者の現象はパラレルに、そして、異質とする異存在として現前化するという立場である。このようにしてマクロ的な視点による相違を明らかにすることで、異質とする異存在は、異存在間で相互的な解釈は可能かに導引する。
何故、異なる現象があるのか、その解釈に及んだ時、それは、同一ではないからという原因律に起因する。それは、決してある図形を見た時、横からは三角、上からは四角である相違はあるが、一つの立方体で成立しているという解釈ではない。
一つは、三角錐で、もう一つは四角柱、異なる立方体であるというのが、マクロ的視点からの東洋と西洋におけるダイナミックとスタティックであると事である。
また、この論述は、神が、存在する、神々が存在する、あるいは、神は存在しないという事についての言及ではない。あくまでも、ダイナミックとスタティックを考察する上で現現象として把握される、比較対象化からの試みである。例え、有神論あっても、無視論であっても、分析対象である、ダイナミックとスタティックに変化はない。何故ならば、それは、前述をしているが、それは、現在起きていて、現在認識が可能な精神的な現象として捉えるからである。それによって、両者が異なる対象同士である事を明確にする事が可能となる。
そして、次段階としては、初源的な対象として東洋と西洋におけるダイナミックとスタティックは全く異なるという固定された視点で、果たして、両世界において、ダイナミックとスタティックは、伝播し、互いに理解しうるのかを論じ、関係的客観性に関する立場から、一つは、三角錐で、もう一つは四角柱、異なる立方体であることを明確にする。
両者現象を異存在と考察し、解釈するという目的において、コミュニケーションという手段から何が理解されるべきか、何が必要であるかを明言する。要するに、ここで、パラダイムシフトの必要性が論じられる事になる。
本論文の目的は、東洋と西洋におけるダイナミックとスタティックは、伝播し、異なる現象を互いに理解しうるのか、あるいはされないのか主眼が置かれている事が、すべての前提である。
また、条件としては、言語相違、言語差異に関しては、認識論的なシンタックスの問題が生じるので、割愛する。何故ならば、言語に焦点を置くと、ダイナミックとスタティックの考察が純粋化されないからである。ただし、私の理解では言語のシンタックス問題も、一つは、三角錐で、もう一つは四角柱、異なる立方体であるという立場であるが、あくまでも、現現象としてのダイナミックとスタティック対象化を行う。その為、言語相違、言語差異の前提は、言語間は意味論的にもっとも近い解釈が可能であるに近づくという立場をとる。言語変換は出来ないという立場にはせず、言語変換は可能であるが、その変換は可能であるがその変換後の言語で解釈は可能なのか。つまり、言語によって異対象化された現象が、伝播においては、言語によって壁を持たないという立場にすることで、ダイナミックとスタティックを純化する。しかしながら、一つの操作として言語変換は可能だが、認識論的には、本当に可能であるのかという疑問を含ませる。何故ならば、一つは、三角錐で、もう一つは四角柱、異なる立方体であるのを解釈するために、異言語変換によって、伝達は出来るのかという課題を言語変換というシステム上に含ませておくためである。そのようにして、純化された異質が関係性を持った時、どのような認識が必要なのか、理解とは何かに言及する。
また、両者の関係性の分析は、マクロ的、ミクロ的の両方で、形而上では行わず、あくまでも、関係客観、互いに独立した対象として、ダイナミックとスタティックを分析する。何故ならば、その部分にパラダイムシフトを提案するからである。

ダイナミックとスタティックの検証課題
(1)マクロ的な分析
鈴木大拙の著作「東洋の見方」では、両者を未分化後と未分化以前を分析対象として捉えているが、本論文では、両者の未分化後と未分化以前は、最初から異なる現象として捉える、その為、ダイナミックとスタティックを東洋と西洋、マクロ的視点を以下の通り記号化し検証する。
(A)東洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
(B)西洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
次に、これらのカテゴライズから関係性を提示する。
例えば、文学上、芸術上で、
(A)東洋型(1)ダイナミックと(B)西洋型(2)スタティックのコンビネーションは可能か。
(A)東洋型(1)ダイナミック
(B)西洋型(2)スタティック
この形式は、創出可能かという想定である。
また、(B)西洋型(1)ダイナミックと(A)東洋型(2)スタティックは可能であるかが、論理的な検証課題となる。
(B)西洋型(1)ダイナミック
(A)東洋型(2)スタティック
このような分析方法を使用すると、東洋と西洋という対象が客観的な関係性に存立しているのではないかという事になる。さらに分析を進めると、
(A)東洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
(B)西洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
は、この関係性で成立しているが、これらを個別対象として抽出することは可能か、そしてその方法をプラクティスとして提案する事が可能かは、ダイナミックとスタティック現象の客観的な操作方法であり、本論文では、作品上での操作方法をプラクティスとして提示する。客観的関係性は、精神所産として表象化する現象、宗教、思想、芸術としての活動として、現前化していると考えられる。
これらの現前化する対象の組み合わせを変えることで、認識関係を提示すると、この形式は成立するのか、つまり、未分化以前と以後、初源認識対象性が同一であるならば、以下の関係性が成り立つ事は可能であるかという言及に及ぶ。
(A)東洋型(1)ダイナミック
(B)西洋型(2)スタティック
(B)西洋型(1)ダイナミック
(A)東洋型(2)スタティック
しかし、本論文では、
(A)東洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
(B)西洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
こここにある、
(1)ダイナミック
(2)スタティック
は、異質ととらえる。それによって、両者の現在現象が肯定される。つまり、異質であるという事が、肯定される。初現対象が同一ならば、
(A)東洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
(B)西洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
(A)と(B)そのどちらかが否定されるという必然が生まれる。しかし、両現現象は、実際に起きている、それを説明するにはどのように関係性を解釈するかは、以下の通りである。
関係が成立
(1)
(A)東洋型(1)ダイナミック
(B)西洋型(2)スタティック
(2)
(B)西洋型(1)ダイナミック
(A)東洋型(2)スタティック
このような関係を提示すると、ダイナミックとスタティックの現象は、同一に志向を持たなければならなくなる。
果たして、現在現象にいて、ダイナミックとスタティックの現象は、同一に志向しているであろうか、依然として、ダイナミックとスタティックは、以下の関係、互いに異なる志向性を維持していないだろうか。
(A)東洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
(B)西洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
マクロ的視点では、この関係を固定する。それは、カテゴライズ(A)東洋型(B)西洋型
を存立するためである。
結論付けると、
(A)東洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
(B)西洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
における初源対象は異なり、また、志向対象も異なる。両者を比較するには、客観的な関係として対象成立しているという事である。もっと踏み込むと、
東洋型と西洋型は、互いに互換性を持たない、固定化されたダイナミックとスタティックであるというのが、マクロ的視点の結論である。

(2)ミクロ的な分析
ミクロ的な視点からの分析としては、個人の認識としてのダイナミックとスタティックに依存する。要約すると、あらゆる東洋と西洋あらゆる個人間で、無条件の対象者の認識を分析課題とする。ダイナミックとスタティックに東洋と西洋の相違を含ませない分析を行うのには、ダイナミックとスタティックの認識結果として、絶対(Ab)/真実(T)か非絶体(Non-Ab)/偽(F)かの真偽を行うためである。そして、そのような分析を行う事で、ミクロ的視点の分析を明確にするという為である。
ダイナミックとスタティックの分析に以下の通り、記号化する。
対象者:A:B:C
対象 :Q1:ダイナミック(D)
Q2:スタティック(S)
認識:絶対(Ab)/真実(T)
非絶体(Non-Ab)/偽(F)
この条件が基礎となり、それぞれの対象関係を提示、分析する。
そして、上記の条件を使用し、以下の通り具体的な組み合わせの例を分析することで、ダイナミックとスタティックのミクロ的な現現象の関係を明確にする。
例1
対象者Aにとって、真実と考えられている、絶対と考えられている対象Qは、対象者Bにとって、その対象Qは、真実であり、絶対となりえるのか。そして、両者が、対象Qを絶対(Ab)/真実(T)として認識成立するのか。
対象者:A:B
対象 :Q1:ダイナミック(D)
Q2:スタティック(S)
認識:絶対(Ab)/真実(T)
例2
対象者、AとBにおいては、対象Qは真実であり、絶対であるが、対象者Cにおいては、真実であり、絶対となりえるのか。そして、対象者Cにおいて、認識:非絶体(Non-Ab)/偽(F)が成立する場合、認識:絶対(Ab)/真実(T)は、絶対(Ab)/真実(T)として成立するのか。
対象者:A:B:C
対象 :Q1:ダイナミック(D)
Q2:スタティック(S)
認識:絶対(Ab)/真実(T):非絶体(Non-Ab)/偽(F)
例3
対象者、A、Bにおいては、対象Qは非絶体であるが、対象者Cにおいては、対象Qは絶対であるという場合、それらは、認識:絶対(Ab)/真実(T):非絶体(Non-Ab)/偽(F)として成立するするのか。
対象者:A:B:C
対象 :Q1:ダイナミック(D)
Q2:スタティック(S)
認識:絶対(Ab)/真実(T):非絶体(Non-Ab)/偽(F)
例4
対象者、A、B、Cにおいては、対象Qは絶対(Ab)/真実(T)であるならば、対象Qは、絶対となりえるのか。それは、対象者、A、B、Cにおいて、認識:非絶体(Non-Ab)/偽(F)が成立、認識されえない場合、認識:絶対(Ab)/真実(T)と成立するのか。
対象者:A:B:C
対象 :Q1:ダイナミック(D)
Q2:スタティック(S)
認識:絶対(Ab)/真実(T)
例5
対象者、A、B、Cにおいては、対象Qは非絶体(Non-Ab)/偽(F)であるならば、非絶体となりえるのか。対象者対象者、A、B、Cにおいて、認識:絶体(Ab)/真実(T)が成立しない場合、認識:非絶体(Non-Ab)/偽(F)として成立。
対象者:A:B:C
対象 :Q1:ダイナミック(D)
Q2:スタティック(S)
認識:非絶体(Non-Ab)/偽(F)
例6
対象者、A、B、Cにおいて、対象 :Qダイナミック(D)とスタティック(S)が細分化された場合。
対象 :Q1:ダイナミック(D)
Q2:スタティック(S)
それぞれが細分化されて、
認識:絶対(Ab)/真実(T)
非絶体(Non-Ab)/偽(F)
を認識する場合、以下のような認識が創出される場合として
対象者:A
対象 :Q1:ダイナミック(D)
認識:絶対(Ab)/真実(T)
Q2:スタティック(S)
認識:非絶体(Non-Ab)/偽(F)
対象者:B
対象 :Q1:ダイナミック(D)
認識:非絶体(Non-Ab)/偽(F)
Q2:スタティック(S)
認識:絶対(Ab)/真実(T)
対象者:C
対象 :Q1:ダイナミック(D)
認識:非絶体(Non-Ab)/偽(F)
Q2:スタティック(S)
認識:非絶体(Non-Ab)/偽(F)
このようにして、ミクロ的な分析において、対象者を多くしていくと、ダイナミックとスタティックは、客観的な関係性上に成立しているのが証明される。
つまり、対象者の認識に依存し、その認識は、一定ではない、多様化しているという事である。このような認識の組み合わせを分析することで、ダイナミックとスタティックは、どのような存在であるのかをミクロ的なその関係性は、如何にして、現象として現前化しているのかが理解される。換言すると、ダイナミックとスタティックは、
認識:絶対(Ab)/真実(T)
非絶体(Non-Ab)/偽(F)
の組み合わせ的な認識結果に依存するという事である。
認識が問題になった時点で、時間性が関連するのではないかという疑問が生じる、つまりミクロ的視点な立場での時間的な対象化によって認識の差異が生じるのではないか、あるいは、対象化の方法によって、差異化関係が生まれるのではないかという問題が提示される。そして、時間観念認識はすなわち時間認識のプロセスが個人単位で行われるという事である。それを突き詰めるならば、各個人間での時間性の捉え方が、両者の相違を創出しているのではないかという事である。そこに、時間観念の対象化と、プロセスによる認識方法に、東洋と西洋が時間的観念に対する認識の相違があるのではないかというのが、ミクロ的視点の分析結果である。

(3)文学との関係におけるダイナミック、スタティックの分析
マクロ的分析とミクロ的な分析をした上で、ここから実際の現象にたいしての考察への適応に及ぶが、文学における東洋と西洋のマクロ的なダイナミック、スタティックの定義とはなにか。これは、自然と人間の立場からの表象に由来しても問題ないと考えられる。文学的な立場では、対象が自然と人間であり、そこからの解釈が作品として対象化されていると考えられる。
しかしながら、心が動いたという文学的な例示をしただけで、その対象によって、追随する対象が動き始めたで理解されるのか。
理解されるならば、手法によってダイナミックとスタティックは表現されることは可能なのかという問いかけがなされる。
自然の中に、スタティックを見出す東洋世界を、これが、文学的には東洋のスタティックな世界ですと例示しただけで、異世界では、東洋以外の世界では理解されるのか。何の異論もなく異質、異文化として結論付けられるのであろうか。自分達が持たない観念性を受け入れる事は、本当に可能であるのだろうかという問いかけである。
我々とは根本的に異なる。そこに終始し、そこに排他性を掃除させないのかという疑問さえ生むのではないか。
異質、この表現こそが、マクロ的な視点で以下の通り、カテゴリ化されたそのものなのである。
(A)東洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
(B)西洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
ダイナミックを表現するうえで、神が光あれと表現したことが、
文学上で、どのようにしてダイナミックとスタティックを実装したかを分析し、文学に与える効果として影響と、伝達が可能を言語差異間からではなく考察をすべきであり、
ダイナミックとスタティックの原点は、時間観念の認識であるというのは、既に論述したとおりであるが、文学上においても時間の捉え方を示し、ダイナミックとスタティックの文学的な認識を行うべきである。西洋では、それを端的に示す宗教上の現象、その時間性は、神が光あれという瞬間から始まる、このダイナミズムを文学に実装しているのではないか。それならば、スタティックは、光あれ、それ以前と解釈されるだろうか。以前はそもそも、東洋と同じスタティックであるとは解釈出来ない。何故ならば、光あれと動かした対象がそこには想定されているからである。文学上においても、ダイナミックとスタティックの捉え方は、西洋と東洋とは異なる。
それは、神が光あれと告げたその神の存在によって、時間的観念が動いたという現象を前提にしているのであり、それ以外の場合ではどうなるかは問題にはしない。しかしながら、未分化以前を考察した時、それは、東洋における文学の現象と同じになると断言出来るのであろうか。それは、まさに両世界で起こってきた文学現象をどのように解釈するのかに関わる事である。
対象化されない、分裂しない状態に、神を置く、それは果たしてダイナミックとスタティックが同じになるだろうかという疑問はないのだろうか。そして、それらを前提とした文学構築において、また、その前提を持たない世界の文学現象とは、異質であると解釈されるべきである。文学的な現象世界でも異質であるとして認識されるべきである。
両者は、根本から全く異なる、それは、客観的関係性の上にそれぞれが存立しているという事で、論理的に解釈されるのではないか。それならば、異現象を認識するには、異なる対象として、両者の関係を分析する事でしか、現在‐現象を解釈は出来ない、すべては今起こっている事、すなわち現象であるという立場からの分析である。
そして、文学の世界で何故、両者に同一性を見出す事で、両者を解釈する必要はあるのだろうか、ダイナミックとスタティックをそれぞれの世界で起こる現象を異現象として捉え、客観的な関係のうちに存立しているとして、両者を分析すれば良いのではないか。
文学的な現象においても、同一化する必要はない、関係間における絶対のパラダイムシフト、相対のパラダイムシフトを行えば、異現象は、異現象として関係を定立することが可能なのではないかという事である。それでなければ、何故、Aにとっては、絶対であるが、Bにとっては、絶対ではないという現象は論理的には成立しない。文学も同じ定立の上に成立する。それならば、教育的な立場は、文学上での絶対のパラダイムシフト、相対のパラダイムシフトを行えるのかが、課題となる筈である。
また、簡単に音楽の世界に触れておく。
ミクロ的視点ですでに分析を行っているが、対象者Aにとって、真実と考えられている、対象Qは、音楽の世界において、例えば、有音間に無音を挟むことによって、静寂、スタティックだと意図をさせ、それがスタティックとして対象者に受け入れられるかという問題が提示でも、ダイナミックとスタティックの問題は生じる。
絶対と考えられている対象Qは、対象者Bにとって、
(1)ダイナミック
(2)スタティック
であるその対象Qは、真実であり、絶対となりえるのか。
また、対象者、AとBにおいては、
(1)ダイナミック
(2)スタティック
は真実であり、絶対であるが、対象者Cにとっても、真実であり、絶対となりえるのか。
認識の範囲を増やし、その対象化の増加する事によって、
(1)ダイナミック
(2)スタティック
は、最終的には大衆にどのような捉え方をするのか。
つまり、ミクロ的には、主観的からが出発点となり、他者関係を持つ事になるという事である。時間的観念、及び、プロセスが前述したミクロ的な視点でも問題となったように、ここでも必然となる。そして、そのプロセスを考察する場合、対象化、プロセスを含む時間観念の認識が分析要因として、文学上で、ダイナミックとスタティックを分析しなければならない。
それは、ダイナミックとスタティック表現しようとする場合、音、空間、心理的な動き、時間的推移といった文学的要素の組み合わせが常に必要になるからであり、文学とはまさに、ダイナミックとスタティックを様々な角度から表現しているからである。

(4)文学的プラクティス
前述されたマクロ的、ミクロ的視点から、ダイナミックとスタティックが文学的表象、あるいは、文学的現象においての文学的プラクティスについての論述を行う。
文学的プラクティスの前提としては、ダイナミックとスタティックは認識され、表現が可能か、そして表現後、伝播するのかという意図を作品、Porque quiero から提示する。
マクロ的、ミクロ的な視点でそれは伝播するのか、あるいはその反対であるのか。文学的な解釈を通じ、文学上でダイナミックとスタティックは、表象化されるのかを明確にする。
文学的プラクティスとしての対象化、その言語変換後に、ダイナミックとスタティックという2要素が伝達可能かつ、認識が可能かを考察し、対象者Aにとって、真実と考えられている、絶対と考えられている対象Qは、対象者Bにとって、その対象Qは、真実であり、絶対となりえるのかという関係に及ばせ、認識共有性としての成立を提示する事で、ダイナミックとスタティックの表象化に対する見解を提示する。しかしながら、この提示は、相互理解が必要な立場ではなく、如何なる、パラダイムシフトが必要なのかを結論的には導くのを目的とする。パラダイムシフトが、如何に教育に影響するのか、どうあるべきかを文学上プラクティスで暗示させ、結論へと導く。
この作品(Porque quiero)は、空間性と時間性の推移にダイナミックとスタティックの関係を置いながら文学上で表現する場合、ダイナミックとスタティックはどのように提示されるかを追求している。そして、時間の観念は、常に現在が未来へ志向しながら、現在内で現象を変えてゆく姿を映し出している。また、現実と現象から時間的逸脱する事で、スタティックを抽出する事はあり得るか、ダイナミックの対極にあるスタティックを表現する事は可能かを文学的な目的を置いた、ダイナミックとスタティックの対象化を試みた作品をサンプルとして提示する。
私のスペイン語作品、Porque quiero(ポルケ キエロ)から“No me pregunets(聞かないで)”Estilo A(タイプA)とEstilo B(タイプB)を提示する。

●No me preguntes
Estilo A
—Quiero terminar.
Así te dije.

Eran las dos de la madrugada.
La sensualidad que abarca en el tiempo.
—Pero ¿por qué?
Así me preguntaste.

Te contesté
—Porque no te amo.

Después de haberlo dicho
sentí
solamente tristeza.

タイプA
「終わりにしたい。」
私は、そう言った

午前二時だった。
時間に妖艶さが宿っていた。
「なんで?」
そう聞き返された。

私は、答えた。
「もう、愛していない。」

そう言った後、
悲しさを
私は感じた。

Estilo B
—Quiero terminar.
Te dije.
Eran las dos de la madrugada.
La sensualidad que abarca el tiempo.
—Pero ¿por qué?
Me preguntaste así.
Te contesté:
—Porque no te amo.
Después abrió la puerta.
Escuché su grito.
—Eres un hombre absurdo.
Yo cerraba la puerta.
El silencio de la infinidad que se expandió en el pasillo.

Yo pensé:
¿Podré coger un taxi en esta madrugada?

タイプB
終わりにしたい。
私は、そう言った
午前二時だった。
時間に妖艶さが宿っていた。
「なんで?」
そう聞き返された。
私は、答えた。
「もう、愛していない。」
私は、ドア開けた。
「あなたは、何も分かっていないわ。」
叫ぶ声に近かった。
私は、ドアを閉めた。
廊下には、どこまでも静寂が広がっていた。

私は、その時考えた。
こんな夜遅くに、タクシーはつかまるかなと。

この作品は、東洋的、西洋的ではなく、その折衷主義に陥らないために、ダイナミックとスタティックを文学上で純粋化させ、対象化するという操作を行った。ただし、西洋的な対象をダイナミックには持たないという点で、東洋的である事を意識させた。そして、この作品のすべては、ダイナミックからスタティックへの移行を示す
タイプB
Yo cerraba la puerta.
El silencio de la infinidad que se expandió en el pasillo.
私は、ドアを閉めた。
廊下には、どこまでも静寂が広がっていた。

この部分に移行性がある。
空間の分離性を、言葉で表現することで、ダイナミックとスタティック、二つの世界をどのように文学上で行使するのかを文学的な意図とし、ダイナミックとスタティックはプロセスとして表象するという提示を行った。
タイプ A が、基本として生み出した最初の作品であり、ここでは、ダイナミックとスタティックを全く意識しない作品を創出した、つまり、基本的なプロセスだけを提示させた。そして、この骨格を基本にして、ダイナミックとスタティックを埋めようとし、Estilo Bに着手した。タイプ Bでの文学的な志向としては、基本段階で、プロセス上のダイナミックとスタティックの実装を意識した。それは、アプリオリとして、基本の骨格があったから、ダイナミックとスタティックのプロセスの提示が可能となった。そして、表象させたダイナミックとスタティックに、マクロ的な視点として、定義を行う為に、
タイプB
Yo pensé:
¿Podré coger un taxi en esta madrugada?
私は、その時考えた。
こんな夜遅くに、タクシーはつかまるかなと。

この部分を埋め込んだ。
これにより、感情性の中に、物質、マテリアルを埋め込み西洋の対極を創出した。
人間間の関係性に関しては、その感情の推移を通じ、ミクロ的視点でプロットは進むが、東洋と西洋というマクロ的な視点を文学的プラクティスとして、どのように組み込むかをここで解決させた。ただし、二元的な対象を作ったのは、ダイナミックとスタティックを表現するという文学的な効果を意図した為である。
このようにして、No me preguntes(聞かないで)におけるダイナミックとスタティックの要素は、
マクロ的な考察、対象関係
ミクロ的な視点、個人間認識関係
この二つをタイプ Bで実装した。
なお、タイプ Aを提示したのは、ダイナミックとスタティックのプロセスを明確にする為であり、骨格としての作品である。
何故ならば、これらの文学的な意図である、ダイナミックとスタティックは本当に理解され、そして、伝わるのか。東洋的に提示した、ダイナミックとスタティックに対し、西洋的な解釈は、東洋的な解釈の前で、同じ解釈性をもたらすのかという問題性を及ばせたかった。文学的な立場であっても、常に、東洋と西洋のダイナミックとスタティックは異質であるという立場には変わらない。それは、客観的関係性に対象が現象化しているという事に他ならないからである。
文学として、感情性にダイナミックを置き、強調させることで、スタティックを対極に生みだす事で可能となる。
Yo cerraba la puerta.
El silencio de la infinidad que se expandió en el pasillo.
私は、ドアを閉めた。
廊下には、どこまでも静寂が広がっていた。

何故ならば、上記のように、空間を分断する音を利用することで、文学プロセス上に空間を持たせ、スタティックを創出したからである。
この作品で扱ったのは、マテリアリズムを持ち込むことで、二元性をダイナミックとスタティックに強調させたのは前述した。それは、文学が批判的側面として問題提議するのは、客観的関係性の存在そのものではなく、客観的関係性であったとしても、客観的な関係性を壊して、絶対化しようとしてするのが問題であるという立場だからである。その真実をマクロ的、ミクロ的なダイナミックとスタティックを抽出する事で文学的な批判性を展開した。
このようにして、文学上で、ダイナミックとスタティックをする事とは、何かを問いかけているのが、No me preguntes(聞かないで) のタイプ A とBである。
これらを理解出来るか、伝播するか、という問題は、次段階のプロセスになる。おそらく、東洋と西洋が最も異質な関係として対峙するのは、解釈においてであると考えられる。つまり、この部分に教育的な要素が加わるのである。


結論
現象がある限り、ダイナミックとスタティックという現象は否定出来ない。
それは、ある世界では絶対として捉えることも、現象であり、相対として捉えることも同様である、そして、その現象は、いかに異質であろうが、異関係性成立している。また、異関係性として伝達は可能であると考えられる。しかしながら、その現象をどのように理解するかは、別の問題、次段階の問題である。
異質として伝えられるが、それを異質として理解が出来るのか、これら2つの事象がダイナミックとスタティックの認識として重要視される。それは、客観的な関係性が成立しているからこそ可能となる伝達である。それは、教育的な立場として伝達を述べるならば、両者の関係を理解していなければ、伝達はしないという事である。
結論的には、絶対として捉えられていた現象が、相対的な関係上に成立する絶対という現象として、ダイナミックとスタティックを通じて、認識される世界に対して、パラダイムシフトが必要であり、教育は、常にパラダイムシフトを受容する、あるいは、出来るようにするという事が未来へ不可欠となる。
現在の現象は、否定出来ない。
何故ならば、それはあるからである。
それならば、何故その現象があり得るのかを考察した場合、どのような解釈が必要なのか、たとえその起きた現象が間違いによって起きた現象であっても、現象は現象である。未来を決定するのは、未来における現在であり、たとえ、現在の現象が未来的には消滅しても、現在‐現在の現象は、現現象がある限りは否定出来ない。
その為、客観的な関係性における絶対、客観的な関係性における相対にという志向性を保持したパラダイムシフトが必要という事である。東洋と西洋では、時間観念の捉え方が相違するからこそ、差異が生じ、現象化している、その為に、それぞれが独自の発展をしたのだと考察される。だからこそ、客観的な関係性における相対にという志向性を保持するとは、その真実を理解するべきである。
最後になるが、パラダイムシフトは、東洋と西洋におけるダイナミックとスタティックは異質であることを認識する為にどうするか、そこに教育の視点がおかれるべきである。


2020年12月7日 東京

ダイナミックとスタティックの問題
The Conference EDUNOVATIC 2020
スペイン語論文
Problemas de dinámica y estática
日本語オリジナル

ダイナミックとスタティックの伝達の問題

¿Qué es la nada para ti?  (あなたにとって、無とは何ですか?)
この質問は、私が、20数年前にカタラン人の中学生から、バルセロナでイエズス会士と出席したとある集まりの中で受けた質問である。
私は、哲学的、宗教的、あるいは、芸術的には、その扱いは東洋と西洋は根本的に異なるという趣旨と共に、Nada(無)に関する答えをした。それが、幼い彼に果たして本当に理解されたかは定かではないが、あの時見た、彼の目の輝きは、その本質を理解してくれたのだと今でも信じている。これから述べるダイナミックとスタティックの伝達の問題は、その時に私が、直面した両世界の関係性を伝達するという経験が出発点になっている。
ダイナミックとスタティックの伝達の問題
この論文の目的は、マクロ的視点、及びミクロ的視点から現象を分析し、分析課題を文学上におけるダイナミックとスタティックの現象に対象化し、異文化、異世界間に伝達する事とは、そして追随する問題を提示し、ダイナミックとスタティックをマクロ的に、ミクロ的に伝えることは、本当に可能か、また、教育的視点で本当に可能であるのかを論述である。
論理的に成立するために、最初に現前化している東洋と西洋のダイナミックとスタティックの異現象をマクロ的、ミクロ的にどのように解釈されるべきから始める。

マクロ的視点の現象例示としては、東洋思想を含む、いわゆる東洋の宗教と言われている、三大宗教、ヒンドゥー教、仏教、道教がある。これらに関しては、一概には同一視されない、また、それらを同一として捉えることは、分析上乱暴な方法になるのを理解した上で、徹底的な視点として、東洋性を顕著化し道教を対象として提示する。これは、マクロ的な比較上、主観‐客観の同一として、西洋と対極的な意味を持っているからである。つまり、同一性のうちにスタティックを内包するという立場で、ダイナミックをプセウド的に解釈するという立場を例示し、東洋的としてマクロ的な視点に主観‐客観の同一として適用する。
一方、西洋の思想から、ヘブライキリスト教、旧約聖書の神が光あれといった部分から、スタティックからダイナミックという遷移、そして、主観‐客観の分裂へのプロセスを提示しマクロ的な例示とする。
そして、東洋と西洋におけるダイナミックとスタティックのサンプルは、主観‐客観の同一か、分裂かを提示し論述を進める。このサンプルの提示は、鈴木大拙が行った未分化後と未分化以前というサンプルと同じ方法をとる。しかしながら、未分化後と未分化以前という立場は本論文ではとらず、ダイナミックとスタティック自体、主観‐客観の同一か、分裂そのものが異質となる立場を明確にする。それは、未分化以前、以後は、東洋と西洋は根本的に異なるという立場である。換言すると、東洋と西洋のダイナミックとスタティックは、比較対象化した時点から、マクロ的な視点の認識として根本的に異なるという立場である。神が光あれという前の世界と後の世界は、東洋が扱っている未分化という立場ではなく、両者の現象はパラレルに、そして、異質とする異存在として現前化するという立場である。このようにしてマクロ的な視点による相違を明らかにすることで、異質とする異存在は、異存在間で相互的な解釈は可能かに導引する。
何故、異なる現象があるのか、その解釈に及んだ時、それは、同一ではないからという原因律に起因する。それは、決してある図形を見た時、横からは三角、上からは四角である相違はあるが、一つの立方体で成立しているという解釈ではない。
一つは、三角錐で、もう一つは四角柱、異なる立方体であるというのが、マクロ的視点からの東洋と西洋におけるダイナミックとスタティックであると事である。
また、この論述は、神が、存在する、神々が存在する、あるいは、神は存在しないという事についての言及ではない。あくまでも、ダイナミックとスタティックを考察する上で現現象として把握される、比較対象化からの試みである。例え、有神論あっても、無視論であっても、分析対象である、ダイナミックとスタティックに変化はない。何故ならば、それは、前述をしているが、それは、現在起きていて、現在認識が可能な精神的な現象として捉えるからである。それによって、両者が異なる対象同士である事を明確にする事が可能となる。
そして、次段階としては、初源的な対象として東洋と西洋におけるダイナミックとスタティックは全く異なるという固定された視点で、果たして、両世界において、ダイナミックとスタティックは、伝播し、互いに理解しうるのかを論じ、関係的客観性に関する立場から、一つは、三角錐で、もう一つは四角柱、異なる立方体であることを明確にする。
両者現象を異存在と考察し、解釈するという目的において、コミュニケーションという手段から何が理解されるべきか、何が必要であるかを明言する。要するに、ここで、パラダイムシフトの必要性が論じられる事になる。
本論文の目的は、東洋と西洋におけるダイナミックとスタティックは、伝播し、異なる現象を互いに理解しうるのか、あるいはされないのか主眼が置かれている事が、すべての前提である。
また、条件としては、言語相違、言語差異に関しては、認識論的なシンタックスの問題が生じるので、割愛する。何故ならば、言語に焦点を置くと、ダイナミックとスタティックの考察が純粋化されないからである。ただし、私の理解では言語のシンタックス問題も、一つは、三角錐で、もう一つは四角柱、異なる立方体であるという立場であるが、あくまでも、現現象としてのダイナミックとスタティック対象化を行う。その為、言語相違、言語差異の前提は、言語間は意味論的にもっとも近い解釈が可能であるに近づくという立場をとる。言語変換は出来ないという立場にはせず、言語変換は可能であるが、その変換は可能であるがその変換後の言語で解釈は可能なのか。つまり、言語によって異対象化された現象が、伝播においては、言語によって壁を持たないという立場にすることで、ダイナミックとスタティックを純化する。しかしながら、一つの操作として言語変換は可能だが、認識論的には、本当に可能であるのかという疑問を含ませる。何故ならば、一つは、三角錐で、もう一つは四角柱、異なる立方体であるのを解釈するために、異言語変換によって、伝達は出来るのかという課題を言語変換というシステム上に含ませておくためである。そのようにして、純化された異質が関係性を持った時、どのような認識が必要なのか、理解とは何かに言及する。
また、両者の関係性の分析は、マクロ的、ミクロ的の両方で、形而上では行わず、あくまでも、関係客観、互いに独立した対象として、ダイナミックとスタティックを分析する。何故ならば、その部分にパラダイムシフトを提案するからである。

ダイナミックとスタティックの検証課題
(1)マクロ的な分析
鈴木大拙の著作「東洋の見方」では、両者を未分化後と未分化以前を分析対象として捉えているが、本論文では、両者の未分化後と未分化以前は、最初から異なる現象として捉える、その為、ダイナミックとスタティックを東洋と西洋、マクロ的視点を以下の通り記号化し検証する。
(A)東洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
(B)西洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
次に、これらのカテゴライズから関係性を提示する。
例えば、文学上、芸術上で、
(A)東洋型(1)ダイナミックと(B)西洋型(2)スタティックのコンビネーションは可能か。
(A)東洋型(1)ダイナミック
(B)西洋型(2)スタティック
この形式は、創出可能かという想定である。
また、(B)西洋型(1)ダイナミックと(A)東洋型(2)スタティックは可能であるかが、論理的な検証課題となる。
(B)西洋型(1)ダイナミック

(A)東洋型(2)スタティック
このような分析方法を使用すると、東洋と西洋という対象が客観的な関係性に存立しているのではないかという事になる。さらに分析を進めると、
(A)東洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
(B)西洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
は、この関係性で成立しているが、これらを個別対象として抽出することは可能か、そしてその方法をプラクティスとして提案する事が可能かは、ダイナミックとスタティック現象の客観的な操作方法であり、本論文では、作品上での操作方法をプラクティスとして提示する。客観的関係性は、精神所産として表象化する現象、宗教、思想、芸術としての活動として、現前化していると考えられる。
これらの現前化する対象の組み合わせを変えることで、認識関係を提示すると、この形式は成立するのか、つまり、未分化以前と以後、初源認識対象性が同一であるならば、以下の関係性が成り立つ事は可能であるかという言及に及ぶ。
(A)東洋型(1)ダイナミック
(B)西洋型(2)スタティック
(B)西洋型(1)ダイナミック
(A)東洋型(2)スタティック
しかし、本論文では、
(A)東洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
(B)西洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
こここにある、
(1)ダイナミック
(2)スタティック
は、異質ととらえる。それによって、両者の現在現象が肯定される。つまり、異質であるという事が、肯定される。初現対象が同一ならば、
(A)東洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
(B)西洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
(A)と(B)そのどちらかが否定されるという必然が生まれる。しかし、両現現象は、実際に起きている、それを説明するにはどのように関係性を解釈するかは、以下の通りである。
関係が成立
(1)
(A)東洋型(1)ダイナミック
(B)西洋型(2)スタティック
(2)
(B)西洋型(1)ダイナミック
(A)東洋型(2)スタティック
このような関係を提示すると、ダイナミックとスタティックの現象は、同一に志向を持たなければならなくなる。
果たして、現在現象にいて、ダイナミックとスタティックの現象は、同一に志向しているであろうか、依然として、ダイナミックとスタティックは、以下の関係、互いに異なる志向性を維持していないだろうか。
(A)東洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
(B)西洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
マクロ的視点では、この関係を固定する。それは、カテゴライズ(A)東洋型(B)西洋型
を存立するためである。
結論付けると、
(A)東洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
(B)西洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
における初源対象は異なり、また、志向対象も異なる。両者を比較するには、客観的な関係として対象成立しているという事である。もっと踏み込むと、
東洋型と西洋型は、互いに互換性を持たない、固定化されたダイナミックとスタティックであるというのが、マクロ的視点の結論である。

(2)ミクロ的な分析
ミクロ的な視点からの分析としては、個人の認識としてのダイナミックとスタティックに依存する。要約すると、あらゆる東洋と西洋あらゆる個人間で、無条件の対象者の認識を分析課題とする。ダイナミックとスタティックに東洋と西洋の相違を含ませない分析を行うのには、ダイナミックとスタティックの認識結果として、絶対(Ab)/真実(T)か非絶体(Non-Ab)/偽(F)かの真偽を行うためである。そして、そのような分析を行う事で、ミクロ的視点の分析を明確にするという為である。
ダイナミックとスタティックの分析に以下の通り、記号化する。
対象者:A:B:C
対象 :Q1:ダイナミック(D)
Q2:スタティック(S)
認識:絶対(Ab)/真実(T)
非絶体(Non-Ab)/偽(F)
この条件が基礎となり、それぞれの対象関係を提示、分析する。
そして、上記の条件を使用し、以下の通り具体的な組み合わせの例を分析することで、ダイナミックとスタティックのミクロ的な現現象の関係を明確にする。
例1
対象者Aにとって、真実と考えられている、絶対と考えられている対象Qは、対象者Bにとって、その対象Qは、真実であり、絶対となりえるのか。そして、両者が、対象Qを絶対(Ab)/真実(T)として認識成立するのか。
対象者:A:B
対象 :Q1:ダイナミック(D)
Q2:スタティック(S)
認識:絶対(Ab)/真実(T)
例2
対象者、AとBにおいては、対象Qは真実であり、絶対であるが、対象者Cにおいては、真実であり、絶対となりえるのか。そして、対象者Cにおいて、認識:非絶体(Non-Ab)/偽(F)が成立する場合、認識:絶対(Ab)/真実(T)は、絶対(Ab)/真実(T)として成立するのか。
対象者:A:B:C
対象 :Q1:ダイナミック(D)
Q2:スタティック(S)
認識:絶対(Ab)/真実(T):非絶体(Non-Ab)/偽(F)
例3
対象者、A、Bにおいては、対象Qは非絶体であるが、対象者Cにおいては、対象Qは絶対であるという場合、それらは、認識:絶対(Ab)/真実(T):非絶体(Non-Ab)/偽(F)として成立するするのか。
対象者:A:B:C
対象 :Q1:ダイナミック(D)
Q2:スタティック(S)
認識:絶対(Ab)/真実(T):非絶体(Non-Ab)/偽(F)
例4
対象者、A、B、Cにおいては、対象Qは絶対(Ab)/真実(T)であるならば、対象Qは、絶対となりえるのか。それは、対象者、A、B、Cにおいて、認識:非絶体(Non-Ab)/偽(F)が成立、認識されえない場合、認識:絶対(Ab)/真実(T)と成立するのか。
対象者:A:B:C
対象 :Q1:ダイナミック(D)
Q2:スタティック(S)
認識:絶対(Ab)/真実(T)
例5
対象者、A、B、Cにおいては、対象Qは非絶体(Non-Ab)/偽(F)であるならば、非絶体となりえるのか。対象者対象者、A、B、Cにおいて、認識:絶体(Ab)/真実(T)が成立しない場合、認識:非絶体(Non-Ab)/偽(F)として成立。
対象者:A:B:C
対象 :Q1:ダイナミック(D)
Q2:スタティック(S)
認識:非絶体(Non-Ab)/偽(F)
例6
対象者、A、B、Cにおいて、対象 :Qダイナミック(D)とスタティック(S)が細分化された場合。
対象 :Q1:ダイナミック(D)
Q2:スタティック(S)
それぞれが細分化されて、
認識:絶対(Ab)/真実(T)
非絶体(Non-Ab)/偽(F)
を認識する場合、以下のような認識が創出される場合として
対象者:A
対象 :Q1:ダイナミック(D)
認識:絶対(Ab)/真実(T)
Q2:スタティック(S)
認識:非絶体(Non-Ab)/偽(F)
対象者:B
対象 :Q1:ダイナミック(D)
認識:非絶体(Non-Ab)/偽(F)
Q2:スタティック(S)
認識:絶対(Ab)/真実(T)
対象者:C
対象 :Q1:ダイナミック(D)
認識:非絶体(Non-Ab)/偽(F)
Q2:スタティック(S)
認識:非絶体(Non-Ab)/偽(F)
このようにして、ミクロ的な分析において、対象者を多くしていくと、ダイナミックとスタティックは、客観的な関係性上に成立しているのが証明される。
つまり、対象者の認識に依存し、その認識は、一定ではない、多様化しているという事である。このような認識の組み合わせを分析することで、ダイナミックとスタティックは、どのような存在であるのかをミクロ的なその関係性は、如何にして、現象として現前化しているのかが理解される。換言すると、ダイナミックとスタティックは、
認識:絶対(Ab)/真実(T)
非絶体(Non-Ab)/偽(F)
の組み合わせ的な認識結果に依存するという事である。
認識が問題になった時点で、時間性が関連するのではないかという疑問が生じる、つまりミクロ的視点な立場での時間的な対象化によって認識の差異が生じるのではないか、あるいは、対象化の方法によって、差異化関係が生まれるのではないかという問題が提示される。そして、時間観念認識はすなわち時間認識のプロセスが個人単位で行われるという事である。それを突き詰めるならば、各個人間での時間性の捉え方が、両者の相違を創出しているのではないかという事である。そこに、時間観念の対象化と、プロセスによる認識方法に、東洋と西洋が時間的観念に対する認識の相違があるのではないかというのが、ミクロ的視点の分析結果である。

(3)文学との関係におけるダイナミック、スタティックの分析
マクロ的分析とミクロ的な分析をした上で、ここから実際の現象にたいしての考察への適応に及ぶが、文学における東洋と西洋のマクロ的なダイナミック、スタティックの定義とはなにか。これは、自然と人間の立場からの表象に由来しても問題ないと考えられる。文学的な立場では、対象が自然と人間であり、そこからの解釈が作品として対象化されていると考えられる。
しかしながら、心が動いたという文学的な例示をしただけで、その対象によって、追随する対象が動き始めたで理解されるのか。
理解されるならば、手法によってダイナミックとスタティックは表現されることは可能なのかという問いかけがなされる。
自然の中に、スタティックを見出す東洋世界を、これが、文学的には東洋のスタティックな世界ですと例示しただけで、異世界では、東洋以外の世界では理解されるのか。何の異論もなく異質、異文化として結論付けられるのであろうか。自分達が持たない観念性を受け入れる事は、本当に可能であるのだろうかという問いかけである。
我々とは根本的に異なる。そこに終始し、そこに排他性を掃除させないのかという疑問さえ生むのではないか。
異質、この表現こそが、マクロ的な視点で以下の通り、カテゴリ化されたそのものなのである。
(A)東洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
(B)西洋型
(1)ダイナミック
(2)スタティック
ダイナミックを表現するうえで、神が光あれと表現したことが、
文学上で、どのようにしてダイナミックとスタティックを実装したかを分析し、文学に与える効果として影響と、伝達が可能を言語差異間からではなく考察をすべきであり、
ダイナミックとスタティックの原点は、時間観念の認識であるというのは、既に論述したとおりであるが、文学上においても時間の捉え方を示し、ダイナミックとスタティックの文学的な認識を行うべきである。西洋では、それを端的に示す宗教上の現象、その時間性は、神が光あれという瞬間から始まる、このダイナミズムを文学に実装しているのではないか。それならば、スタティックは、光あれ、それ以前と解釈されるだろうか。以前はそもそも、東洋と同じスタティックであるとは解釈出来ない。何故ならば、光あれと動かした対象がそこには想定されているからである。文学上においても、ダイナミックとスタティックの捉え方は、西洋と東洋とは異なる。
それは、神が光あれと告げたその神の存在によって、時間的観念が動いたという現象を前提にしているのであり、それ以外の場合ではどうなるかは問題にはしない。しかしながら、未分化以前を考察した時、それは、東洋における文学の現象と同じになると断言出来るのであろうか。それは、まさに両世界で起こってきた文学現象をどのように解釈するのかに関わる事である。
対象化されない、分裂しない状態に、神を置く、それは果たしてダイナミックとスタティックが同じになるだろうかという疑問はないのだろうか。そして、それらを前提とした文学構築において、また、その前提を持たない世界の文学現象とは、異質であると解釈されるべきである。文学的な現象世界でも異質であるとして認識されるべきである。
両者は、根本から全く異なる、それは、客観的関係性の上にそれぞれが存立しているという事で、論理的に解釈されるのではないか。それならば、異現象を認識するには、異なる対象として、両者の関係を分析する事でしか、現在‐現象を解釈は出来ない、すべては今起こっている事、すなわち現象であるという立場からの分析である。
そして、文学の世界で何故、両者に同一性を見出す事で、両者を解釈する必要はあるのだろうか、ダイナミックとスタティックをそれぞれの世界で起こる現象を異現象として捉え、客観的な関係のうちに存立しているとして、両者を分析すれば良いのではないか。
文学的な現象においても、同一化する必要はない、関係間における絶対のパラダイムシフト、相対のパラダイムシフトを行えば、異現象は、異現象として関係を定立することが可能なのではないかという事である。それでなければ、何故、Aにとっては、絶対であるが、Bにとっては、絶対ではないという現象は論理的には成立しない。文学も同じ定立の上に成立する。それならば、教育的な立場は、文学上での絶対のパラダイムシフト、相対のパラダイムシフトを行えるのかが、課題となる筈である。
また、簡単に音楽の世界に触れておく。
ミクロ的視点ですでに分析を行っているが、対象者Aにとって、真実と考えられている、対象Qは、音楽の世界において、例えば、有音間に無音を挟むことによって、静寂、スタティックだと意図をさせ、それがスタティックとして対象者に受け入れられるかという問題が提示でも、ダイナミックとスタティックの問題は生じる。
絶対と考えられている対象Qは、対象者Bにとって、
(1)ダイナミック
(2)スタティック
であるその対象Qは、真実であり、絶対となりえるのか。
また、対象者、AとBにおいては、
(1)ダイナミック
(2)スタティック
は真実であり、絶対であるが、対象者Cにとっても、真実であり、絶対となりえるのか。
認識の範囲を増やし、その対象化の増加する事によって、
(1)ダイナミック
(2)スタティック
は、最終的には大衆にどのような捉え方をするのか。
つまり、ミクロ的には、主観的からが出発点となり、他者関係を持つ事になるという事である。時間的観念、及び、プロセスが前述したミクロ的な視点でも問題となったように、ここでも必然となる。そして、そのプロセスを考察する場合、対象化、プロセスを含む時間観念の認識が分析要因として、文学上で、ダイナミックとスタティックを分析しなければならない。
それは、ダイナミックとスタティック表現しようとする場合、音、空間、心理的な動き、時間的推移といった文学的要素の組み合わせが常に必要になるからであり、文学とはまさに、ダイナミックとスタティックを様々な角度から表現しているからである。

(4)文学的プラクティス
前述されたマクロ的、ミクロ的視点から、ダイナミックとスタティックが文学的表象、あるいは、文学的現象においての文学的プラクティスについての論述を行う。
文学的プラクティスの前提としては、ダイナミックとスタティックは認識され、表現が可能か、そして表現後、伝播するのかという意図を作品、Porque quiero から提示する。
マクロ的、ミクロ的な視点でそれは伝播するのか、あるいはその反対であるのか。文学的な解釈を通じ、文学上でダイナミックとスタティックは、表象化されるのかを明確にする。
文学的プラクティスとしての対象化、その言語変換後に、ダイナミックとスタティックという2要素が伝達可能かつ、認識が可能かを考察し、対象者Aにとって、真実と考えられている、絶対と考えられている対象Qは、対象者Bにとって、その対象Qは、真実であり、絶対となりえるのかという関係に及ばせ、認識共有性としての成立を提示する事で、ダイナミックとスタティックの表象化に対する見解を提示する。しかしながら、この提示は、相互理解が必要な立場ではなく、如何なる、パラダイムシフトが必要なのかを結論的には導くのを目的とする。パラダイムシフトが、如何に教育に影響するのか、どうあるべきかを文学上プラクティスで暗示させ、結論へと導く。
この作品(Porque quiero)は、空間性と時間性の推移にダイナミックとスタティックの関係を置いながら文学上で表現する場合、ダイナミックとスタティックはどのように提示されるかを追求している。そして、時間の観念は、常に現在が未来へ志向しながら、現在内で現象を変えてゆく姿を映し出している。また、現実と現象から時間的逸脱する事で、スタティックを抽出する事はあり得るか、ダイナミックの対極にあるスタティックを表現する事は可能かを文学的な目的を置いた、ダイナミックとスタティックの対象化を試みた作品をサンプルとして提示する。
私のスペイン語作品、Porque quiero(ポルケ キエロ)から“No me pregunets(聞かないで)”Estilo A(タイプA)とEstilo B(タイプB)を提示する。

●No me preguntes
Estilo A
—Quiero terminar.
Así te dije.

Eran las dos de la madrugada.
La sensualidad que abarca en el tiempo.
—Pero ¿por qué?
Así me preguntaste.

Te contesté
—Porque no te amo.

Después de haberlo dicho
sentí
solamente tristeza.

タイプA
「終わりにしたい。」
私は、そう言った

午前二時だった。
時間に妖艶さが宿っていた。
「なんで?」
そう聞き返された。

私は、答えた。
「もう、愛していない。」

そう言った後、
悲しさを
私は感じた。

Estilo B
—Quiero terminar.
Te dije.
Eran las dos de la madrugada.
La sensualidad que abarca el tiempo.
—Pero ¿por qué?
Me preguntaste así.
Te contesté:
—Porque no te amo.
Después abrió la puerta.
Escuché su grito.
—Eres un hombre absurdo.
Yo cerraba la puerta.
El silencio de la infinidad que se expandió en el pasillo.

Yo pensé:
¿Podré coger un taxi en esta madrugada?

タイプB
終わりにしたい。
私は、そう言った
午前二時だった。
時間に妖艶さが宿っていた。
「なんで?」
そう聞き返された。
私は、答えた。
「もう、愛していない。」
私は、ドア開けた。
「あなたは、何も分かっていないわ。」
叫ぶ声に近かった。
私は、ドアを閉めた。
廊下には、どこまでも静寂が広がっていた。

私は、その時考えた。
こんな夜遅くに、タクシーはつかまるかなと。

この作品は、東洋的、西洋的ではなく、その折衷主義に陥らないために、ダイナミックとスタティックを文学上で純粋化させ、対象化するという操作を行った。ただし、西洋的な対象をダイナミックには持たないという点で、東洋的である事を意識させた。そして、この作品のすべては、ダイナミックからスタティックへの移行を示す
タイプB
Yo cerraba la puerta.
El silencio de la infinidad que se expandió en el pasillo.
私は、ドアを閉めた。
廊下には、どこまでも静寂が広がっていた。

この部分に移行性がある。
空間の分離性を、言葉で表現することで、ダイナミックとスタティック、二つの世界をどのように文学上で行使するのかを文学的な意図とし、ダイナミックとスタティックはプロセスとして表象するという提示を行った。
タイプ A が、基本として生み出した最初の作品であり、ここでは、ダイナミックとスタティックを全く意識しない作品を創出した、つまり、基本的なプロセスだけを提示させた。そして、この骨格を基本にして、ダイナミックとスタティックを埋めようとし、Estilo Bに着手した。タイプ Bでの文学的な志向としては、基本段階で、プロセス上のダイナミックとスタティックの実装を意識した。それは、アプリオリとして、基本の骨格があったから、ダイナミックとスタティックのプロセスの提示が可能となった。そして、表象させたダイナミックとスタティックに、マクロ的な視点として、定義を行う為に、
タイプB
Yo pensé:
¿Podré coger un taxi en esta madrugada?
私は、その時考えた。
こんな夜遅くに、タクシーはつかまるかなと。

この部分を埋め込んだ。
これにより、感情性の中に、物質、マテリアルを埋め込み西洋の対極を創出した。
人間間の関係性に関しては、その感情の推移を通じ、ミクロ的視点でプロットは進むが、東洋と西洋というマクロ的な視点を文学的プラクティスとして、どのように組み込むかをここで解決させた。ただし、二元的な対象を作ったのは、ダイナミックとスタティックを表現するという文学的な効果を意図した為である。
このようにして、No me preguntes(聞かないで)におけるダイナミックとスタティックの要素は、
マクロ的な考察、対象関係
ミクロ的な視点、個人間認識関係
この二つをタイプ Bで実装した。
なお、タイプ Aを提示したのは、ダイナミックとスタティックのプロセスを明確にする為であり、骨格としての作品である。
何故ならば、これらの文学的な意図である、ダイナミックとスタティックは本当に理解され、そして、伝わるのか。東洋的に提示した、ダイナミックとスタティックに対し、西洋的な解釈は、東洋的な解釈の前で、同じ解釈性をもたらすのかという問題性を及ばせたかった。文学的な立場であっても、常に、東洋と西洋のダイナミックとスタティックは異質であるという立場には変わらない。それは、客観的関係性に対象が現象化しているという事に他ならないからである。
文学として、感情性にダイナミックを置き、強調させることで、スタティックを対極に生みだす事で可能となる。
Yo cerraba la puerta.
El silencio de la infinidad que se expandió en el pasillo.
私は、ドアを閉めた。
廊下には、どこまでも静寂が広がっていた。

何故ならば、上記のように、空間を分断する音を利用することで、文学プロセス上に空間を持たせ、スタティックを創出したからである。
この作品で扱ったのは、マテリアリズムを持ち込むことで、二元性をダイナミックとスタティックに強調させたのは前述した。それは、文学が批判的側面として問題提議するのは、客観的関係性の存在そのものではなく、客観的関係性であったとしても、客観的な関係性を壊して、絶対化しようとしてするのが問題であるという立場だからである。その真実をマクロ的、ミクロ的なダイナミックとスタティックを抽出する事で文学的な批判性を展開した。
このようにして、文学上で、ダイナミックとスタティックをする事とは、何かを問いかけているのが、No me preguntes(聞かないで) のタイプ A とBである。
これらを理解出来るか、伝播するか、という問題は、次段階のプロセスになる。おそらく、東洋と西洋が最も異質な関係として対峙するのは、解釈においてであると考えられる。つまり、この部分に教育的な要素が加わるのである。


結論
現象がある限り、ダイナミックとスタティックという現象は否定出来ない。
それは、ある世界では絶対として捉えることも、現象であり、相対として捉えることも同様である、そして、その現象は、いかに異質であろうが、異関係性成立している。また、異関係性として伝達は可能であると考えられる。しかしながら、その現象をどのように理解するかは、別の問題、次段階の問題である。
異質として伝えられるが、それを異質として理解が出来るのか、これら2つの事象がダイナミックとスタティックの認識として重要視される。それは、客観的な関係性が成立しているからこそ可能となる伝達である。それは、教育的な立場として伝達を述べるならば、両者の関係を理解していなければ、伝達はしないという事である。
結論的には、絶対として捉えられていた現象が、相対的な関係上に成立する絶対という現象として、ダイナミックとスタティックを通じて、認識される世界に対して、パラダイムシフトが必要であり、教育は、常にパラダイムシフトを受容する、あるいは、出来るようにするという事が未来へ不可欠となる。
現在の現象は、否定出来ない。
何故ならば、それはあるからである。
それならば、何故その現象があり得るのかを考察した場合、どのような解釈が必要なのか、たとえその起きた現象が間違いによって起きた現象であっても、現象は現象である。未来を決定するのは、未来における現在であり、たとえ、現在の現象が未来的には消滅しても、現在‐現在の現象は、現現象がある限りは否定出来ない。
その為、客観的な関係性における絶対、客観的な関係性における相対にという志向性を保持したパラダイムシフトが必要という事である。東洋と西洋では、時間観念の捉え方が相違するからこそ、差異が生じ、現象化している、その為に、それぞれが独自の発展をしたのだと考察される。だからこそ、客観的な関係性における相対にという志向性を保持するとは、その真実を理解するべきである。
最後になるが、パラダイムシフトは、東洋と西洋におけるダイナミックとスタティックは異質であることを認識する為にどうするか、そこに教育の視点がおかれるべきである。


2020年12月7日 東京

次の記事

高知