時間と空間、そして、詩

時間と空間、そして、詩

詩的創造について、どのように定義するか?
それは、美学自体の一部なのだろうか?
美学であるならば、
時間、空間、そして、詩はどのように関連付けられ、また、定義されるだろうか?
この質問から、詩の世界を考察するが出来る。
例えば、「海の風がある」という要素は、詩的創造の世界でどのように扱われるだろうか。
あるいは、「海の風」だけで、詩そのものとして、成立が可能であろうか。
「海の風」だけを通して、詩世界を構成するならば、それは詩であると言えるのだろうか?
もっと深く掘り下げる為に、「青」というタイトルを提示する。一体、どのような解釈があるだろうか。


海の風。

タイトルと詩の本体における関係によって、世界を構成することは出来るだろうか?
タイトル「青」はどのように詩世界を変容させるだろうか?
客観的かつ関係的である事が、詩の世界を創出し、それらの要素だけで詩世界は現れる。
もう少し分析を続け、理解を深めるためにタイトルを付与はしない。
例を上げる。

海の風、それだけ。

この件に関して、今までと同様の問い掛けが可能であるが、この一節だけで詩であると言う事は出来るのだろうか?
言葉による変換は、条件なしで詩の分類に属する。
この件が前提となるなら、詩の要素に関して、詩的な意図を超えて、真実である何かがあると考察される。
それは何であろうか?
詩人は詩人自身の絶対的な世界、あるいは具体的な詩世界を持っている。これが前提であり、初源的な確立となる。つまり、詩人が意図的にフレーズを作成した場合、詩人と詩との間には、関係性が自動的に確立されるという事である。
海の風、それだけ。
これは、要素間に関係性が確立されているので、間違いなくそれは詩と呼べる。
しかし、読者の作品との仲介が必然となった場合に問題となる。
読者にとって、この詩はどのように考えられるだろうか、詩として受け入れられるのだろうか?

海の風、それだけ。

読者が詩として受け入れる場合、解釈性が付随する、つまり、ある読者にとっては、詩であり、また、別の読者は、詩である事を理解出来ない。
しかしながら、この解釈については注意が必要である。
どのように詩が提案され、この詩上でどのように関係性が提供されたかである。
要するに、相対要素によって、詩は制限された目的であると定義が可能である。
詩人にとって

海の風、それだけ。

は、既に表現されているのであるから、その世界は、具体的であり、決定的な世界である。
そして、関係性の要素を用いて、詩と読者の関係性を比較すると、詩解釈の相違が以下のように提案される。
詩は具体的で決定的な世界と、抽象的で非決定的な世界との組み合わせで構成されている。
美学はここに現れ、そしてここから来るからである。また、美学はこれらの要素の統括である、何故なら、この要素に美学の価値があるからである。
どのような状況下でも、詩世界の決定する初源的な構成は、具体的で決定的な世界、抽象的な非決定的な世界ではなく、時間、空間、そして、詩である。

2020年5月22日 東京 

時間と空間、そして、詩

詩的創造について、どのように定義するか?
それは、美学自体の一部なのだろうか?
美学であるならば、
時間、空間、そして、詩はどのように関連付けられ、また、定義されるだろうか?
この質問から、詩の世界を考察するが出来る。
例えば、「海の風がある」という要素は、詩的創造の世界でどのように扱われるだろうか。
あるいは、「海の風」だけで、詩そのものとして、成立が可能であろうか。
「海の風」だけを通して、詩世界を構成するならば、それは詩であると言えるのだろうか?
もっと深く掘り下げる為に、「青」というタイトルを提示する。一体、どのような解釈があるだろうか。


海の風。

タイトルと詩の本体における関係によって、世界を構成することは出来るだろうか?
タイトル「青」はどのように詩世界を変容させるだろうか?
客観的かつ関係的である事が、詩の世界を創出し、それらの要素だけで詩世界は現れる。
もう少し分析を続け、理解を深めるためにタイトルを付与はしない。
例を上げる。

海の風、それだけ。

この件に関して、今までと同様の問い掛けが可能であるが、この一節だけで詩であると言う事は出来るのだろうか?
言葉による変換は、条件なしで詩の分類に属する。
この件が前提となるなら、詩の要素に関して、詩的な意図を超えて、真実である何かがあると考察される。
それは何であろうか?
詩人は詩人自身の絶対的な世界、あるいは具体的な詩世界を持っている。これが前提であり、初源的な確立となる。つまり、詩人が意図的にフレーズを作成した場合、詩人と詩との間には、関係性が自動的に確立されるという事である。
海の風、それだけ。
これは、要素間に関係性が確立されているので、間違いなくそれは詩と呼べる。
しかし、読者の作品との仲介が必然となった場合に問題となる。
読者にとって、この詩はどのように考えられるだろうか、詩として受け入れられるのだろうか?

海の風、それだけ。

読者が詩として受け入れる場合、解釈性が付随する、つまり、ある読者にとっては、詩であり、また、別の読者は、詩である事を理解出来ない。
しかしながら、この解釈については注意が必要である。
どのように詩が提案され、この詩上でどのように関係性が提供されたかである。
要するに、相対要素によって、詩は制限された目的であると定義が可能である。
詩人にとって

海の風、それだけ。

は、既に表現されているのであるから、その世界は、具体的であり、決定的な世界である。
そして、関係性の要素を用いて、詩と読者の関係性を比較すると、詩解釈の相違が以下のように提案される。
詩は具体的で決定的な世界と、抽象的で非決定的な世界との組み合わせで構成されている。
美学はここに現れ、そしてここから来るからである。また、美学はこれらの要素の統括である、何故なら、この要素に美学の価値があるからである。
どのような状況下でも、詩世界の決定する初源的な構成は、具体的で決定的な世界、抽象的な非決定的な世界ではなく、時間、空間、そして、詩である。

2020年5月22日 東京 

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