ガラスの糸

ガラスの糸

時間の存在は、不思議だ。
光が全くない、闇に包まれた静寂の中の時間。
輝きに満ちあふれた光と雑踏の時間。
闇の中、満月が照らす、恍惚の時間。
時間は、空間の中で、いつも同じ時として刻むのであろうか。
時間の本当の姿は、それぞれ独立していて、その場所、その時間に応じて、実は歩みが違うのではないだろうか。
その証拠に、苦悩に会うと、時間は途端に歩みを緩める。喜びに会うと、喜びとは早く決別させようと、途端に、刻み方を早くさせる。
人間の内面的な感情性の中にも、時間は、外面とは別に自らの存在を見せつける。それは、客観的でさえ、主観的でさえ、その歩みは超越しているようにさえ感じ取れる。
だから、外面の世界と内面の世界が、決して同調することはないというように、別々の時間という存在でそれぞれの世界に時を刻む。
そして、その刻み方は、現在と過去さえ、未来と過去さえ、同じ表情を見せることはない。
時に早く、時に遅く。
時間は、永遠に不思議な存在だ。

冬の歩みと共に、時間は、どことなくゆっくりとしていた。
凍りつくような空気の中に、張りつめた一本の線があった。そして、その冷たさは、精神さえ屹立させるようだった。
東京、丸の内。
街の色は、冬の寒さに抵抗するかのように、暖色が目立っていた。
そのコントラストに、冬が持つ美の視点が至る所に点在していた。
真冬の小さな旅から帰ってきた彼女は、飲み物も手を付けることなく話し続けた。
熱い状態で出された紅茶からは、二人の間で湯気を立て続けていた。
その湯気は、都会の冷たい風の流れに従い空間にどこかに消えて行った。
その日、久しぶりに私と会うと、彼女は、すぐに、
「パリは寒い日と、春みたいにあったかい日が、一緒になって、二つの季節を旅していたみたいで、本当に楽しかったわ。」と告げた。本当にという単語に、力強さがこもっていた。
けれど私は、故意にその言葉を意識的にさせないようにした。全てがその一言にある気がしたからだった。
「楽しかったかい。」
そう問いかけた、私に、
「ええ」
とだけ彼女は答えた。
真冬でもテラスの席がある、そのカフェに入る前、
「今日は、寒いから、店内にしよう」
と提案した私の言う事など聞くこともなく、自分の意思を貫くように、テラスの席の方に歩いて行き、先に木製の椅子に座って見せた。座ってすぐ、自分の不機嫌さを見せようと、鏡をバックから取り出した。そして、無言のまま、鏡に映る自分の顔を覗いた。私は、化粧の具合を見たのではなく、彼女の目の中を確かめたのだと感じ取った。
その仕草の一部始終は、旅の前でも、旅の後でも、意地という物自体は変わらないという事を意味しているようだった。そう、私がパリに一緒に行けなかった事が、許せないのという気持ちを精一杯表現しているようだった。
ただ私にとっては、旅から戻って来た方が、さらに意地を張っているように見えて仕方なかった。本当は心のどこかで、自分が旅をしている街にまで、追いかけてくれると信じ続けていたのかな、とさえ思えた。
旅に行こうと約束していたが、切符を買った直後、私の気持ちが突然変わった。旅をキャンセルした。あの時、何故か突然、旅に行く気持ちが奪い去られた。飛行機に乗って、旅先で宿に着いて、街を見てという事を想像しただけで、面倒くさくなり、気が滅入った。
私は、仕方なく
「急に、仕事が入ったから、行けなくなった。」
と嘘をついた。そう嘘をついたけれど罪悪感もなかった。自分の心の中で、愛が薄れてしまったのかなと考えた。けれどその時、愛なんて、考えた所で答えは見つかるものではないさ、と自分に言い聞かせ、その場をしのいだ。
「仕事、それじゃ仕方ないわね。」
あの時、彼女は瞳の中に落胆を映して見せた。
仕事のせい、それは、単なる言い訳としてではなく、受け入れるしかない、絶対的な理由となりえた。「仕事を辞めて一緒に行きましょうよ」と、彼女が言えるほどの勇気は持っていないと私は思っていた。けれど、もし、女性がその勇気を持っていたら、言い訳など不要で、一緒に旅しに行っていたかもしれなかった。
愛が薄れたのではなく、一人の女性としての魅力が薄れた、そんな感情さえ私は抱いた。
新鮮さを失い、会話の中身も変わらなくなり、同じ事を繰り返しているだけのような関係になってしまっていた。だから、単調になった二人の関係の真ん中に向かい、
「ごめんね」
と言った。そう告げた私に、悲しそうな表情を浮かべて見せた。すぐさま、彼女の手のひらに自分の手を重ね、気持ちをくんでいる仕草を見せた。
けれど、彼女は、自分の手をすぐに引き、私の手を重ねさせることはなかった。
「悪いね」
と、再度、謝ると、
「仕事でしょ、仕方ないわ。」
と言った。私は、
「やめるだろ、パリに行くの。」
と、旅をやめるのを促した。
「いやよ、私一人でも行くわ。」
と言い、涙ぐみだ。涙をすする音と、涙を堪えようとする目に見えない音が、交錯し、彼女を強くさせた。
「だって、楽しみにしていたから。」
私は、その強さに、それ以上、引き留める必要もないと考え、言葉を続かせなかった。

少しだけ、過去の世界を過ごした後、ふと視線を変えた。
紅茶が放っていた湯気に勢いがなくなった光景があった。もう、だいぶ紅茶は、冷めてしまっているのだろうと、想像をした。彼女の表情をじっと見つめていた自分が居たのに気付いた。瞬間、私は、旅立つ前の瞳を思い出した。旅立つ前と後が、オーバーラップした。それぞれの姿を、異なる時間が包み込み、その中に、私が持ったそれぞれの感情が重なっていた。
「楽しみにしていたから、行くわ、一人で。」
旅立つ前にそう言った彼女の言葉と、旅から帰ってきて、再会した時に私に告げた、
「本当に楽しかった。」
という、言葉が重なった。
二つの異なる時間が、異なる言葉の中に集約され、過去の同調を崩され、今という時間に戻った気がした。今を構築する時間は、過去と現在、現在と未来が、巧みに重なり合っている気がした。旅を終え、なお、引き続いている開放的な表情と共に、満足そうな表情もあった。あるいは、一人ででも行ってきたのよという、勝ち誇った雰囲気さえ感じられた。
私は、最初のうちは楽しそうに旅の話を聞いていたが、何故か次第に心が遠くなった。話に感情をのめり込ませられた時は、私の目の前に、パリの冬の光景が目の前に広がっていたが、旅の話から、気持ちが遠ざかると同時に、私の目の前から、その街の姿は消えた。感情をのめり込ませられた時は、私も行きたかったという感情が湧いたが、次第に遠ざかると、その気持ちもいつしか消えていた。
「その大通りから、一本路地に入ったところにパン屋さんがあって、そこのアップルパイが本当においしかったのよ。中には、不思議な木の実が入っているの。口に含むと、甘さが絶妙で、とろけるようだったわ。本当においしかった。」
と、スマートフォンの画面に映る、パリの地図を指さしながら、恍惚の視線で告げた。
私は、ただただ頷いた。
それまで、美術館で見た、名画の話から、突然、思いついたように話題を変えて、アップルパイの話をし始めていた。声の調子が、急に少女のように、透き通った気がして、その時から、遠ざかっていた自分の意識のすべてが、彼女の方に向かった。
「そんなにおいしかったのかい。」
それまでの無関心さから、なんだか楽しそうに、関心ありげに聞いた。
彼女の目は輝いていた。外国の街で、違う言葉の中で、出会った時間が、その目の輝きにはあった。私は、もし、自分も一緒に旅に行っていたら、きっと、その輝きを一日中見られたのだろうと想像した。いい時間になっていたのかもしれない、と一人考えてみた。
「一度も食べたことないわ、あんなにおいしいアップルパイは。しかもね、そのパイの中には、名前の分からない木の実が入っていて、本当に口当たりが良くておいしいの。リンゴの酸っぱさが、不思議な位マイルドになってしまうの、甘さが本当に絶妙なのよ。」
同じことを繰り返した。まるで、異国でであったアップルパイを一口ほおばって、紅茶を口の含むという感じで、紅茶に口を付けた。紅茶の香りに、彼女はうっとりした表情を作った。一つの接点によって、過去は、現在に生き続けているのだと思った。
「食べてみたかったな。一緒に。」
と、どこか別の世界に紛れ込むような気持ちと共に告げた。私は、優しい心持で言ったつもりだった。しかし、気持ちとは裏腹に、
「残念ね。食べられなかったの。」
と突き返えされた。
自分自身が浸っていた世界に、私という存在が入り込んで来たので、一緒には、その世界にはいたくない、何故入り込むのというような拒絶的な表情を作った。
あぁ、という嘆きの言葉が私の心をよぎった。すれ違っていると思った。しばらく、二人はこのままなのだろうと思い、仕方ないと諦めた。
そして、心の中でついさっき言った、嘆きのあぁという言葉の意味合いを変えながら、
「ああ。」
と答えた。
その返答の仕方が、気に入らなかったのだろうか、彼女は、言葉を発することはなかった。しばらくして、まるで、言葉が存在しない世界から、今戻りましたというように言った。
「本当においしかったのよ。」
その言葉の端々には、どことなく、悲しげで、物憂げで、しかも、物足りなさまで含まれていた。耳に届いた後、とげとげしさが私に訪れた。
けれど、今まで一度も見せた事のない表情に、私は目を細め、綺麗だと思った。その目にひかれたのか、私の表情をまじまじと見つめながら、
「本当に一緒に食べたかったわ。」
と言った。
「行けなくて、ごめん。」
相違うった瞬間、突然、彼女の表情が崩れ、泣きそうな表情を作った。
「いいのよ、別に。」
精一杯、楽しそうに振舞おうとしていた。
けれど、一緒に行こうと決めていた旅行に行けなくなった事に、まだ、わだかまりと怒りがこもっているようだった。二人の間の出来事は、二人にだけは重大であるのに、目の前を行き交う人は、全く他人事で、無関心であり続けているように、二人にしかない世界があった。
けれど不思議な事に、また明るくて、幸せそうになった。
「パリの人たちは、みんな笑顔で楽しそうだった。
不幸が、この土地にはあるのかなって思ったわ。あんなに、楽しそうな表情で、歩ける街に、不幸なんて見当たらない気がしたわ。夢の国があるとしたら、ああいう場所をいうのね。」
楽しそうに話しながらも、一言、一言、そのすべての矛先が、私にあるのだという風に感じた。
私は、不幸がない土地があるのだろうか、もしあるなら、行ってみたいと心の中で思ったが、口にはしなかった。もし、言葉にしていたら、一緒に来なかったから見られなかったと言われるのが、おちだと思ったからだった。
テラスの席から、時折、客が店の中に入ろうとした時、開けた扉の向こう側から、
心地よい音楽が聞こえてきた。私は、東京も、パリもそんなに変わらない気がした。
その時、パリから出店してきた、パン屋が、私の目に入った。
「そのパン屋さんのパイは地元の人に人気があるみたいだった。ガイドブックに載っていないから、旅行者の人なんて誰もいないの。いつ買いに行っても、フランス人が列をつくって買っていたわ。フランス語で店員さんと楽しそうに話していたから、きっとパリの人よ。そうね、パリにもし住めたら、きっと、毎日買いに行くかもしれないわ。それ位、おいしかったわ。
初老の品良い夫婦は、十個も買って、自分達が持ってきた買い物籠に入れていた。きっと、一家で食べるねって思った。
二日目に見たカップルは、店を出るとすぐにほおばっていたわ。紙袋を破ると、彼女の方が、嬉しそうに、ほおばり始めていた。
私は、一日二回、いつも一つだった。指を一本だけ立て、一つ下さいって、フランス語で言ったのよ。
でも、なんだか、いつも気恥ずかしかった。だって、きっと寂しい女の人に見られているのではないかと思ったから。だって、いつも、一人だったから。
でもね、最後の日には、二回共、二つ買ったわ。それだけで、おなかがいっぱいになったけれど。」

丸の内に流れてゆく日差しの影が、少しだけ、濃くなった。
悲しみも、苦しみも、不幸さえ存在しえないそんな時間が訪れた。
「ああ、頼まなければ、良かった。」
いつもは、大好物と言って食べ終わるアップルパイをその日は、一口だけ食べ、残していた。フォークの先にパイ生地のかけらが付いていた。
「食べたい?」
と彼女が聞いた。
「黒いビールには合わないさ。」
と断ると、悲しそうな表情を浮かべた。
それでも、
「黒ビールなんて、きざな飲み物を飲むからよ。」
と笑って見せた。
「コーヒーにしておけば、良かったのかな。同じ色だから。」
と私は告げた。微妙さが、彼女の感性に触れたのか、
「ブラックのコーヒーにも、似合わないわ。紅茶がいいのよ。」
すれ違う、感情同士があった。埋められない何かがある気がした。
「そうかな。」
私はそう言いながら、笑って見せた。言葉にならないような感情が生まれた。
心の距離を縮めようとして、好きだと言おうとしたが、好きとは言ってはいけないという、自制心が私自身を遮った。このままの距離でいいと、自分に言い聞かせた。
その距離を気付いたのか、
「少し、歩かない。」
と、誘われた。
「いいよ。」
と答え、
「もういいのかい。」
と、食べかけのアップルパイを指差した。
「なんだか、おなかいっぱいだから。」
その言葉は、パリの方がいいのよ、と言っているみたいな気がした。
勘定をその場で済ませ、二人は、立ち上がった。
食べかけのアップルパイが、テーブルの上に残され、テーブルの上に残したレシートが風に乗って舞いかけた。
二人がそれまで座っていた席だけ、ぽっかりと空いた。時間は、知らぬ間に流れ去っているのだと、私は感じた。

夜へと姿を変えた街は、ヘッドランプを灯した車がひっきりなしに、行き交っていた。
大通りを外れたところ、少し路地になったところで、二人の指が触れた。
彼女の指は、冷たかった。私は、心知れない切なさを感じた。
ただ、そのすぐ後で、心の中の何かが無関心に散っていった。
私は、冷たさを確かめようと彼女の手をぎゅっと握りしめた。そして、力強く自分の方に引き寄せ、抱いた。か細い力が、私の胸に伝わった。
唇を重ねた。
柔らかい唇に、ふとした、官能を覚えた。旅の前の感触と何も変わっていない気がした。余韻に浸るかのように、ゆっくり唇を離した。冷たい空気が、二人の唇の間を流れて行った。私は、指先で、彼女の唇をなぞった。彼女は、じっと私を見つめていた。
物憂げな視線を受けながら、指を離した。自分の感情を心の中で変換してから、下唇に残った女の香りを確かめた。
物憂げでいて、それでいて甘く、また、どこかしら、悲しげでもあった。
自分の目の前に映る、今という時間から離れて、どんなところを旅していたのか、どことなく分かる気がした。もしかしたら、彼女は、旅には行かず、この街にいたのではないかとさえ感じた。
まだ、遠い向こうに、夕暮れ時の空が、一分部だけ残っていた。
私達は、再び歩き始めた。
若い男と女が、楽しそうに会話しながら、私達とすれ違った。
「何を食べる」
と会話しているのが、すれ違いざまに聞こえた。
やがて、夕暮れ時の一瞬も消え、 時間は、闇の中にその歩みを早くさせた。
東京の街が、まばゆい街灯に、さらにさらに包まれた。
夜への憧憬に、私は気が遠くなった。
都会の空に映る星は、か細い光を辛うじて輝かせ、都会にも星はあるのだと教えてくれているようだった。
歩きながら、また、二人の指先が触れた。
触れた指先は、お互いにどこまでも、どこまでも冷たかった。
私達は、会話をすることはなかった。それぞれが、街の表情と共に、それぞれの時間に浸っていた。一人は、東京に、そして、一人はパリに。
会話を失った二人にとって、目に映る街の姿は、言い知れぬほどの孤独が宿っていた。
それは、いつまでも、どこまでも、切ない気がした。
か細い線が宿る都会の真ん中で、私は、何故かパリのどこかの場所を旅している気がした。
時が、止まってしまったと錯覚した。
その時だった。
二人はガラスの糸で結ばれている、そんな気がした。

ガラスの糸

時間の存在は、不思議だ。
光が全くない、闇に包まれた静寂の中の時間。
輝きに満ちあふれた光と雑踏の時間。
闇の中、満月が照らす、恍惚の時間。
時間は、空間の中で、いつも同じ時として刻むのであろうか。
時間の本当の姿は、それぞれ独立していて、その場所、その時間に応じて、実は歩みが違うのではないだろうか。
その証拠に、苦悩に会うと、時間は途端に歩みを緩める。喜びに会うと、喜びとは早く決別させようと、途端に、刻み方を早くさせる。
人間の内面的な感情性の中にも、時間は、外面とは別に自らの存在を見せつける。それは、客観的でさえ、主観的でさえ、その歩みは超越しているようにさえ感じ取れる。
だから、外面の世界と内面の世界が、決して同調することはないというように、別々の時間という存在でそれぞれの世界に時を刻む。
そして、その刻み方は、現在と過去さえ、未来と過去さえ、同じ表情を見せることはない。
時に早く、時に遅く。
時間は、永遠に不思議な存在だ。

冬の歩みと共に、時間は、どことなくゆっくりとしていた。
凍りつくような空気の中に、張りつめた一本の線があった。そして、その冷たさは、精神さえ屹立させるようだった。
東京、丸の内。
街の色は、冬の寒さに抵抗するかのように、暖色が目立っていた。
そのコントラストに、冬が持つ美の視点が至る所に点在していた。
真冬の小さな旅から帰ってきた彼女は、飲み物も手を付けることなく話し続けた。
熱い状態で出された紅茶からは、二人の間で湯気を立て続けていた。
その湯気は、都会の冷たい風の流れに従い空間にどこかに消えて行った。
その日、久しぶりに私と会うと、彼女は、すぐに、
「パリは寒い日と、春みたいにあったかい日が、一緒になって、二つの季節を旅していたみたいで、本当に楽しかったわ。」と告げた。本当にという単語に、力強さがこもっていた。
けれど私は、故意にその言葉を意識的にさせないようにした。全てがその一言にある気がしたからだった。
「楽しかったかい。」
そう問いかけた、私に、
「ええ」
とだけ彼女は答えた。
真冬でもテラスの席がある、そのカフェに入る前、
「今日は、寒いから、店内にしよう」
と提案した私の言う事など聞くこともなく、自分の意思を貫くように、テラスの席の方に歩いて行き、先に木製の椅子に座って見せた。座ってすぐ、自分の不機嫌さを見せようと、鏡をバックから取り出した。そして、無言のまま、鏡に映る自分の顔を覗いた。私は、化粧の具合を見たのではなく、彼女の目の中を確かめたのだと感じ取った。
その仕草の一部始終は、旅の前でも、旅の後でも、意地という物自体は変わらないという事を意味しているようだった。そう、私がパリに一緒に行けなかった事が、許せないのという気持ちを精一杯表現しているようだった。
ただ私にとっては、旅から戻って来た方が、さらに意地を張っているように見えて仕方なかった。本当は心のどこかで、自分が旅をしている街にまで、追いかけてくれると信じ続けていたのかな、とさえ思えた。
旅に行こうと約束していたが、切符を買った直後、私の気持ちが突然変わった。旅をキャンセルした。あの時、何故か突然、旅に行く気持ちが奪い去られた。飛行機に乗って、旅先で宿に着いて、街を見てという事を想像しただけで、面倒くさくなり、気が滅入った。
私は、仕方なく
「急に、仕事が入ったから、行けなくなった。」
と嘘をついた。そう嘘をついたけれど罪悪感もなかった。自分の心の中で、愛が薄れてしまったのかなと考えた。けれどその時、愛なんて、考えた所で答えは見つかるものではないさ、と自分に言い聞かせ、その場をしのいだ。
「仕事、それじゃ仕方ないわね。」
あの時、彼女は瞳の中に落胆を映して見せた。
仕事のせい、それは、単なる言い訳としてではなく、受け入れるしかない、絶対的な理由となりえた。「仕事を辞めて一緒に行きましょうよ」と、彼女が言えるほどの勇気は持っていないと私は思っていた。けれど、もし、女性がその勇気を持っていたら、言い訳など不要で、一緒に旅しに行っていたかもしれなかった。
愛が薄れたのではなく、一人の女性としての魅力が薄れた、そんな感情さえ私は抱いた。
新鮮さを失い、会話の中身も変わらなくなり、同じ事を繰り返しているだけのような関係になってしまっていた。だから、単調になった二人の関係の真ん中に向かい、
「ごめんね」
と言った。そう告げた私に、悲しそうな表情を浮かべて見せた。すぐさま、彼女の手のひらに自分の手を重ね、気持ちをくんでいる仕草を見せた。
けれど、彼女は、自分の手をすぐに引き、私の手を重ねさせることはなかった。
「悪いね」
と、再度、謝ると、
「仕事でしょ、仕方ないわ。」
と言った。私は、
「やめるだろ、パリに行くの。」
と、旅をやめるのを促した。
「いやよ、私一人でも行くわ。」
と言い、涙ぐみだ。涙をすする音と、涙を堪えようとする目に見えない音が、交錯し、彼女を強くさせた。
「だって、楽しみにしていたから。」
私は、その強さに、それ以上、引き留める必要もないと考え、言葉を続かせなかった。

少しだけ、過去の世界を過ごした後、ふと視線を変えた。
紅茶が放っていた湯気に勢いがなくなった光景があった。もう、だいぶ紅茶は、冷めてしまっているのだろうと、想像をした。彼女の表情をじっと見つめていた自分が居たのに気付いた。瞬間、私は、旅立つ前の瞳を思い出した。旅立つ前と後が、オーバーラップした。それぞれの姿を、異なる時間が包み込み、その中に、私が持ったそれぞれの感情が重なっていた。
「楽しみにしていたから、行くわ、一人で。」
旅立つ前にそう言った彼女の言葉と、旅から帰ってきて、再会した時に私に告げた、
「本当に楽しかった。」
という、言葉が重なった。
二つの異なる時間が、異なる言葉の中に集約され、過去の同調を崩され、今という時間に戻った気がした。今を構築する時間は、過去と現在、現在と未来が、巧みに重なり合っている気がした。旅を終え、なお、引き続いている開放的な表情と共に、満足そうな表情もあった。あるいは、一人ででも行ってきたのよという、勝ち誇った雰囲気さえ感じられた。
私は、最初のうちは楽しそうに旅の話を聞いていたが、何故か次第に心が遠くなった。話に感情をのめり込ませられた時は、私の目の前に、パリの冬の光景が目の前に広がっていたが、旅の話から、気持ちが遠ざかると同時に、私の目の前から、その街の姿は消えた。感情をのめり込ませられた時は、私も行きたかったという感情が湧いたが、次第に遠ざかると、その気持ちもいつしか消えていた。
「その大通りから、一本路地に入ったところにパン屋さんがあって、そこのアップルパイが本当においしかったのよ。中には、不思議な木の実が入っているの。口に含むと、甘さが絶妙で、とろけるようだったわ。本当においしかった。」
と、スマートフォンの画面に映る、パリの地図を指さしながら、恍惚の視線で告げた。
私は、ただただ頷いた。
それまで、美術館で見た、名画の話から、突然、思いついたように話題を変えて、アップルパイの話をし始めていた。声の調子が、急に少女のように、透き通った気がして、その時から、遠ざかっていた自分の意識のすべてが、彼女の方に向かった。
「そんなにおいしかったのかい。」
それまでの無関心さから、なんだか楽しそうに、関心ありげに聞いた。
彼女の目は輝いていた。外国の街で、違う言葉の中で、出会った時間が、その目の輝きにはあった。私は、もし、自分も一緒に旅に行っていたら、きっと、その輝きを一日中見られたのだろうと想像した。いい時間になっていたのかもしれない、と一人考えてみた。
「一度も食べたことないわ、あんなにおいしいアップルパイは。しかもね、そのパイの中には、名前の分からない木の実が入っていて、本当に口当たりが良くておいしいの。リンゴの酸っぱさが、不思議な位マイルドになってしまうの、甘さが本当に絶妙なのよ。」
同じことを繰り返した。まるで、異国でであったアップルパイを一口ほおばって、紅茶を口の含むという感じで、紅茶に口を付けた。紅茶の香りに、彼女はうっとりした表情を作った。一つの接点によって、過去は、現在に生き続けているのだと思った。
「食べてみたかったな。一緒に。」
と、どこか別の世界に紛れ込むような気持ちと共に告げた。私は、優しい心持で言ったつもりだった。しかし、気持ちとは裏腹に、
「残念ね。食べられなかったの。」
と突き返えされた。
自分自身が浸っていた世界に、私という存在が入り込んで来たので、一緒には、その世界にはいたくない、何故入り込むのというような拒絶的な表情を作った。
あぁ、という嘆きの言葉が私の心をよぎった。すれ違っていると思った。しばらく、二人はこのままなのだろうと思い、仕方ないと諦めた。
そして、心の中でついさっき言った、嘆きのあぁという言葉の意味合いを変えながら、
「ああ。」
と答えた。
その返答の仕方が、気に入らなかったのだろうか、彼女は、言葉を発することはなかった。しばらくして、まるで、言葉が存在しない世界から、今戻りましたというように言った。
「本当においしかったのよ。」
その言葉の端々には、どことなく、悲しげで、物憂げで、しかも、物足りなさまで含まれていた。耳に届いた後、とげとげしさが私に訪れた。
けれど、今まで一度も見せた事のない表情に、私は目を細め、綺麗だと思った。その目にひかれたのか、私の表情をまじまじと見つめながら、
「本当に一緒に食べたかったわ。」
と言った。
「行けなくて、ごめん。」
相違うった瞬間、突然、彼女の表情が崩れ、泣きそうな表情を作った。
「いいのよ、別に。」
精一杯、楽しそうに振舞おうとしていた。
けれど、一緒に行こうと決めていた旅行に行けなくなった事に、まだ、わだかまりと怒りがこもっているようだった。二人の間の出来事は、二人にだけは重大であるのに、目の前を行き交う人は、全く他人事で、無関心であり続けているように、二人にしかない世界があった。
けれど不思議な事に、また明るくて、幸せそうになった。
「パリの人たちは、みんな笑顔で楽しそうだった。
不幸が、この土地にはあるのかなって思ったわ。あんなに、楽しそうな表情で、歩ける街に、不幸なんて見当たらない気がしたわ。夢の国があるとしたら、ああいう場所をいうのね。」
楽しそうに話しながらも、一言、一言、そのすべての矛先が、私にあるのだという風に感じた。
私は、不幸がない土地があるのだろうか、もしあるなら、行ってみたいと心の中で思ったが、口にはしなかった。もし、言葉にしていたら、一緒に来なかったから見られなかったと言われるのが、おちだと思ったからだった。
テラスの席から、時折、客が店の中に入ろうとした時、開けた扉の向こう側から、
心地よい音楽が聞こえてきた。私は、東京も、パリもそんなに変わらない気がした。
その時、パリから出店してきた、パン屋が、私の目に入った。
「そのパン屋さんのパイは地元の人に人気があるみたいだった。ガイドブックに載っていないから、旅行者の人なんて誰もいないの。いつ買いに行っても、フランス人が列をつくって買っていたわ。フランス語で店員さんと楽しそうに話していたから、きっとパリの人よ。そうね、パリにもし住めたら、きっと、毎日買いに行くかもしれないわ。それ位、おいしかったわ。
初老の品良い夫婦は、十個も買って、自分達が持ってきた買い物籠に入れていた。きっと、一家で食べるねって思った。
二日目に見たカップルは、店を出るとすぐにほおばっていたわ。紙袋を破ると、彼女の方が、嬉しそうに、ほおばり始めていた。
私は、一日二回、いつも一つだった。指を一本だけ立て、一つ下さいって、フランス語で言ったのよ。
でも、なんだか、いつも気恥ずかしかった。だって、きっと寂しい女の人に見られているのではないかと思ったから。だって、いつも、一人だったから。
でもね、最後の日には、二回共、二つ買ったわ。それだけで、おなかがいっぱいになったけれど。」

丸の内に流れてゆく日差しの影が、少しだけ、濃くなった。
悲しみも、苦しみも、不幸さえ存在しえないそんな時間が訪れた。
「ああ、頼まなければ、良かった。」
いつもは、大好物と言って食べ終わるアップルパイをその日は、一口だけ食べ、残していた。フォークの先にパイ生地のかけらが付いていた。
「食べたい?」
と彼女が聞いた。
「黒いビールには合わないさ。」
と断ると、悲しそうな表情を浮かべた。
それでも、
「黒ビールなんて、きざな飲み物を飲むからよ。」
と笑って見せた。
「コーヒーにしておけば、良かったのかな。同じ色だから。」
と私は告げた。微妙さが、彼女の感性に触れたのか、
「ブラックのコーヒーにも、似合わないわ。紅茶がいいのよ。」
すれ違う、感情同士があった。埋められない何かがある気がした。
「そうかな。」
私はそう言いながら、笑って見せた。言葉にならないような感情が生まれた。
心の距離を縮めようとして、好きだと言おうとしたが、好きとは言ってはいけないという、自制心が私自身を遮った。このままの距離でいいと、自分に言い聞かせた。
その距離を気付いたのか、
「少し、歩かない。」
と、誘われた。
「いいよ。」
と答え、
「もういいのかい。」
と、食べかけのアップルパイを指差した。
「なんだか、おなかいっぱいだから。」
その言葉は、パリの方がいいのよ、と言っているみたいな気がした。
勘定をその場で済ませ、二人は、立ち上がった。
食べかけのアップルパイが、テーブルの上に残され、テーブルの上に残したレシートが風に乗って舞いかけた。
二人がそれまで座っていた席だけ、ぽっかりと空いた。時間は、知らぬ間に流れ去っているのだと、私は感じた。

夜へと姿を変えた街は、ヘッドランプを灯した車がひっきりなしに、行き交っていた。
大通りを外れたところ、少し路地になったところで、二人の指が触れた。
彼女の指は、冷たかった。私は、心知れない切なさを感じた。
ただ、そのすぐ後で、心の中の何かが無関心に散っていった。
私は、冷たさを確かめようと彼女の手をぎゅっと握りしめた。そして、力強く自分の方に引き寄せ、抱いた。か細い力が、私の胸に伝わった。
唇を重ねた。
柔らかい唇に、ふとした、官能を覚えた。旅の前の感触と何も変わっていない気がした。余韻に浸るかのように、ゆっくり唇を離した。冷たい空気が、二人の唇の間を流れて行った。私は、指先で、彼女の唇をなぞった。彼女は、じっと私を見つめていた。
物憂げな視線を受けながら、指を離した。自分の感情を心の中で変換してから、下唇に残った女の香りを確かめた。
物憂げでいて、それでいて甘く、また、どこかしら、悲しげでもあった。
自分の目の前に映る、今という時間から離れて、どんなところを旅していたのか、どことなく分かる気がした。もしかしたら、彼女は、旅には行かず、この街にいたのではないかとさえ感じた。
まだ、遠い向こうに、夕暮れ時の空が、一分部だけ残っていた。
私達は、再び歩き始めた。
若い男と女が、楽しそうに会話しながら、私達とすれ違った。
「何を食べる」
と会話しているのが、すれ違いざまに聞こえた。
やがて、夕暮れ時の一瞬も消え、 時間は、闇の中にその歩みを早くさせた。
東京の街が、まばゆい街灯に、さらにさらに包まれた。
夜への憧憬に、私は気が遠くなった。
都会の空に映る星は、か細い光を辛うじて輝かせ、都会にも星はあるのだと教えてくれているようだった。
歩きながら、また、二人の指先が触れた。
触れた指先は、お互いにどこまでも、どこまでも冷たかった。
私達は、会話をすることはなかった。それぞれが、街の表情と共に、それぞれの時間に浸っていた。一人は、東京に、そして、一人はパリに。
会話を失った二人にとって、目に映る街の姿は、言い知れぬほどの孤独が宿っていた。
それは、いつまでも、どこまでも、切ない気がした。
か細い線が宿る都会の真ん中で、私は、何故かパリのどこかの場所を旅している気がした。
時が、止まってしまったと錯覚した。
その時だった。
二人はガラスの糸で結ばれている、そんな気がした。

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